スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

本人告知への道⑥

4年生の冬、告知の方向へは進まなかったけれど、

娘が通常級へ移りたい、という決意を示した5年生・・
その時が2度目の告知のチャンスだったのかもしれません。
医師から障がいについて本人に説明してもらい、それであえてどうしたいか考えてもらう・・
通常級に移るか、支援級に残るのか。
多分、娘の気持ちは変わらなかったと想像します。
だけど、何かあった時・・困ったことが起きた時の気持ちのとらえ方が、
告知を受けたか受けなかったかで
かなり違っていたのではないかと・・
通常級で練習してきた半年間、
娘の頑張りが、チリが積もった山にはならなかったのではないか・・
娘にとってつらく、むなしいものには
ならずに済んだのではないか・・
少なくとも、今とは違う状況で6年生を迎えていたかもしれない。
仮に同じ不登校だったとしても。
しかし、またも本人告知にはこぎつけませんでした。
5年生の秋、ちょうど協力級で練習を始めようかと動き出していた頃、
病院の定期受診がありました。
病院が遠いことと、娘の状態が落ち着いて経過していたので、年に1回の受診にしていたのです。
奇遇にもちょうどこの時期に受診とぶつかるなんて・・
そこで医師にこれまでの1年間の流れと(前年は受診後に娘が崩れだした)、
これから通常級への準備を進めることを話しました。
医師は喜ばしいと娘を褒めました。
頑張ってるね、成長してるね、と。
あとで医師とわたしが2人になる時間を取ってもらい、告知について相談しました。
医師は、あえて「障がい」という言葉を使う必要はなく、今まで通り「こういうところがあるよ」という感じで伝えていけば良いのではないか・・
そうおっしゃいました。
・・やっぱり、まだ早いのかな・・
・・「障がい」って言葉は本人にとってかなりダメージ強いのかな・・
結局また、告知の機会を見送ってしまいました。
いっそ、わたしから話すべきか?
だけど、医師に断りなく勝手に伝えていいのか?
それよりも、
わたしが告知をすると、親ではなく医療者になってしまう・・
そんな気がしたのです。
告知(治療の一貫ですよね)はあくまでも医師がするもの、
療育はあくまでも専門の支援者がするもの、
わたしは・・
わたしはまず第1に、娘の母親でいたい・・
そう思ったのです。
なので、わたしの口から話すなんてことは、
その時はまだ考えられませんでした。