スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

「死」という名前の扉を探しに

「あなたの生活の中には『死』が占める割合が多すぎるような気がする」

先日のカウンセリングで言われました。
その時に話題になったのが、先々週だったか、兄2と意味深な話をした事。
そして私自身、死について考えるものがある事。
 
私自身の考えとは。
 
今の我が家の状態は、これまでの当たり障りない生活から一転、すごくてんこ盛りな印象です。あちこちでケガ人続出みたいな。
この混乱に、果たしてゴールは見えるのかと考えた時、誰かの死をもってでしか解決しないのではないか…例えば私自身の大病や死そのものとか。
 
それくらいの大きな隕石が落ちなければ、誰かが180度変わる事は不可能なのではないか? (極論ですが)。
 
また、死を迎えるのが、私自身ではないかもしれない可能性。
例えば、今1番深淵のほとりを歩いていそうに見える兄2。
しかし私には彼の死ですら、遠い遠い昔からすでに覚悟している事なのです。
 
それはいつから覚悟していたのか?
 
また自分の死などはいつも日常的に思い描き、死に対する心構えや、いつどんな時でも死が訪れる可能性に怯えてはいけないと言い聞かせてきました。
 
一体、いつから言い聞かせてきたのだろう?
 
常に私は、最悪の事を想定し、想像し、覚悟して物事に臨むことがあります。
もちろん最悪の可能性が高いほど、その行程は慎重に、現実的に起こり得るものとして緊張感を高めます。
 
いつからそんな癖がついたのだろう?
 
その日のカウンセリングでは答えが見つからず、帰り道に車を運転しながら、ボンヤリと思い出そうとしてみました。
自分の周りにはこれまで自然な形の死は多くあったけれど、心を揺るがすほどの死には遭遇していない…はずなのですが。
 
何かあるのかもしれない、何かあるはずだ、思い出せていない何かが。
 
家に到着し、いつもの生活に戻り、機械的に家事をこなしながら、はたと甦る記憶。
 
あったよ、見つけた。
ここにあったんだ。