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スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘 (13歳) と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

懺悔の値打ちはあるかもしれない

自分のこと

カウンセリングを受ける中、私のこれまでの記憶や経験が、単に過去のものではないと気づいた時。

それが家族、特に子ども達に、共鳴とも言えるような強い影響を与えていると知った時、やはりぞっとするものです。
 
その頃から、もう1つのブログとして『Book of the njght 』を書き始めました。
Book of the njght …
「夜の帳」が下りる~ 夜になって暗くなる様を、垂れ絹が下りたことにたとえたもの。
この言葉が美しく、この標題を気に入っています。どちらのブログも私にとっては、苦しくて愛しい存在です。
 
もともと、セクシャリティに関することに興味や関心があります。その理由は、自分の成長の過程で得た経験が大きいとは思うのですが。
何故自分が、その分野にそれ程強く惹かれてしまうのか、10代の頃から不思議でした。
それは、その中に自分が探し求めているものがあるのではないか…という不確かな直感。または無意識の中にある、過去の記憶がそうさせるのかもしれません。
 
とは言え、過去の自分に何があったのかは殆どの事は覚えています。色褪せて、形も原型を留めていないけれど、自分の内面の引き出しに仕舞ってあります。
それは隕石ほど巨大なダメージではないでしょうが、大粒から小粒大の、大小様々な形状の、性にまつわる記憶なのです。
 
今でも、それは取るに足らない、みんな口にしないだけで、世間ではありがちな事ではないかと思う自分がいます。
実際、誰かから酷い虐待や性暴力を受けたわけではないのです。
( 後になって考えると、デートレイプは受けていたのだと思います)
 敢えて言うなら、それは高温やけどではなく、低温やけどのようなものかもしれません。見た目には皮膚のダメージがさほどなく、中で静かに燻っているような。
 
私が生まれ育った環境は、性に対して良く言えばおおらかであり、悪く言えばルーズと言えるでしょうか。
 今はもう朧げではあるけれど、注意深く意識すれば次第に蘇る、昔、何度も思い出していた記憶が、いくつかあります。
 
 
中学生の頃、父が私に水着を買ってくれました。
それは涼しげな色の、シンプルで垢抜けたデザインで、私も大変気に入りました。
父は私に着替えてくるように言いました。目の前で水着姿をお披露目しろと言うのです。
もしも私がもう少し幼くて…そうでないにしても、例えば家族で海水浴に行き、その姿を見られるのであれば、何の躊躇いもなかったと思います。
私は恥ずかしく、だからもじもじと抵抗したつもりです。
しかし父は、その水着を買ってきたのは自分なのだから、水着姿を見る権利がある。そしてお前には見せる義務があると言うのです。
そう言われて、それもそうかな…と思い直し、父の前でお披露目しました。父は満足気でした。
その事が、親経由で流れてゆき、女友達にからかわれたのです。
 
そんなの信じられない、父親にそんな姿を見せるなんて。友達は父よりも、私に対して嘲笑的でした。
その時、娘にそのように要求する父親が、他の家庭ではあり得ないのだと感じました。
仮にあり得たとしても、拒否をすればよい話で、父親に抵抗もせずに、その姿を見せる必要はないのだと。
しかしその時の私には、父に対して最後まで抵抗するという事を思いつきませんでしたし、思いついたとして、実際そうできたかは難しいように思います。
 
父にまつわる石ころは、一番多く様々な種類があるのですが、とりあえず一場面として。
 
兄は小学校低学年の頃、近所の男の子と私にキスをしろと強要しました。
当時私にとって兄は、父や祖父達と同じく男性において…でしょうか、命令をされれば従わなければならない存在でした。
もちろん、拒否的な態度や言葉を使って多少の抵抗は示しますが、結果的に従わざるを得ないのだと諦めてしまいます。
 それは、嫌だと言って逃げ切れるものではない家族の関係に思えます。
兄はただ口をつけただけではなく、唾液を飲み合うように命じました。相手の子の苦い唾液の味を今も思い出せます。
しかしそんな事も、昔は縦社会であった子どもの世界では、時々見られる光景だったのではないかと思います。さほど異常と言える事でもないような気がします。
命令した方は忘れているだけで、された方は言わないだけなのです。 
 
自分が望まないことを強要された時、逃げようと思えば逃げても良く、誰かに助けを求めても良いのだと思いつきませんでした。
そして結果的に、はっきりと拒絶しなければ同意した事になるという自分の立ち位置。
 
 
小学校中学年の頃、虫垂炎で1週間ほど入院しました。
もう2,3日で退院できるという頃、私は退屈で院内を散歩していました。
日中はもう、びっしり付き添われる事もなく、母か姉は出かけていたようです。
 
廊下に、車椅子に乗った初老の男性がいました。そのおじさんは、私に車椅子に乗せてあげると誘いかけました。私は嬉しくてうなづきましたが、おじさんが自分の太股の上に乗りなさいと言うので、
「痛くないかな?」と気になり、遠慮がちに腰掛けました。するとおじさんは私の股間を力強く抱え込みました。
その時は、私が滑り落ちないようにしっかり支えてくれているのだと思いました。
 
この記憶は、家族の記憶とは違い、たまにふと思い出しては、すぐに忘れてしまう淡い記憶でした。
本当であれば、とうに忘れていたかもしれませんが、車椅子に乗せてもらえたという気持ちが、全く忘れ去るには新鮮だったのかもしれません。
しかし、そうやって思い出す毎に、
「あれは何の意味があったのか?」と疑問に思うのです。
おじさんは優しい笑みを浮かべていました。
何故おじさんは私を車椅子に乗せてくれたのか、何故そんなに思い切り、両手を股間に当てなければならないのか…。
何の思惑もなく、私の思い過ごしなのかもしれません。
しかし私が大きくなるにつれ、その記憶が色濃くなるのです。
 
 
私が小学校に入学して、登下校を一緒にする友達が2人いました。
大勢の児童が歩いて行く道路とは違い、私達が帰る方向は、まばらな数の子ども達でした。
給食を食べて下校するのは、1年生の私達くらいしかいません。私はその2人の男の子達とよく帰りました。
 
いつも道草をしながら、ゆっくり歩くので時間がかかります。ある日、私は途中で小水したくなりました。
知らない家にトイレを借りることもできず、やむを得ず道路の脇で済ませました。
その事1つにしても、昔の田舎の風景ではありがちなものでした。その風景を見て育った私には、さほど抵抗のない行為でした。
さすがに車の行き交う場所では憚れるので、少し離れた草原の、車から見えない場所でしました。もちろん、男子達からも離れて。
 
しかしその男子達は興味深げに覗きに来たのでした。私はまだ途中だったので動けませんでした。
2人はニヤニヤしながら、コソコソと話していました。
私はちょっと嫌だな、と思いつつも、さほど気にせず、その後もいつも通り彼らと帰って行きました。
 
それ以来、彼らに性器を見せろとか、触らせろとか言われたような記憶があります。
最初はからかうようにだったのが、そのうち軽い脅しのような態度を取ります。
その態度が冗談半分だとわかっていても(怖さは感じませんでした)、そう言われる事は不快で、気の重い事でした。
かと言って、帰り道が一緒で帰る時間も同じ彼らと、顔を合わさずに済む方法がわかりませんでした。(幸いクラスは別でしたが)
その話題になると、避けるように足早に1人、先に歩いて帰りました。彼らは面白がって追いかけてきます。
 
そしてとうとう、頼むからと、一度だけだからとお願いされ、一度だけ、タイツの上から性器の部分を触らせてしまいました。
触られたのではなく、触らせたのです。
彼らは嬉しそうに満足そうに笑っていました。
 
しかしその後も、また触らせてほしい、触らせろと、帰り道にしつこく言われました。
それが幼い私なりに苦痛だったのでしょう。
それまで、その事を家族にこぼした事はありませんでした。
大した事じゃないと思っていたからです。ほんの子ども同士の遊びの、度が過ぎた感じの…。
 
それでもある日、ひょんな事で姉にその事を愚痴ってしまいました。しつこくされて困ってるんだよねーと。心に思っているよりも軽い調子で言ったのを憶えています。
すると姉の表情が曇り、すぐに母親に伝えたのではないでしょうか。そして母から父へ。
父は私を呼び寄せました。
「その話は本当なのか?」私は真面目な顔をした父を見て、いつもとガラリと変わってしまったその場の空気を感じました。
父はすぐに電話しました、学校とその子達の家に。
そして父は「先生にもあっちの家にもちゃんと言っておいたから、もう大丈夫だぞ」と私に言いました。
私はとにかく、これでしつこく言われずに済むと思うとホッとしました。
 
翌日の帰り道、ばったり彼らと出くわしました。彼らは怒っていました。「お前のせいで先生に殴られたんだからな…」と。
その時の私は、彼らを怖いとは思いませんでした。自分がもっと毅然とした態度でいないとダメなんだ。これからは笑ったりないで、つんとしていないと。
 
それから暫くは、彼らも私もお互いに近付きませんでしたし、話をする事もありませんでした。
しかし田舎ゆえ、その後も同じ学校の同級生として、中学を卒業するまで、嫌でも顔を合わさなければなりませんでした。高校生になると顔を合わせる機会は激減ましたが、それでも全く会わずに済むわけではありません。
彼らと顔を合わせる度に、さっきまで忘れていた記憶が蘇ります。
顔を合わせなくても、折に触れ思い出されてしまう時もあります。
もう慣れるしかない、と思いました。顔を合わせても平常心でいられる訓練、記憶が蘇ることの習慣にも。
 
時には教室の中で、何もなかったように皆と同じに接しなければならない。
友達つながりの友達として交流をしなければならない。
時にはほかの友達に混ざって、私の部屋の中に案内しなければならない。
 
その事が起きて1年も経たない頃のこと、学校のトイレで噂話が聞こえます。
「Aちゃん (私の事ではないです) は男子に体を触られて喜んでたんだってー」
噂をしていたのは男子だったか女子だったか。トイレの中で私は表情がこわばります。同じ事を自分もされたのに、何故その子だけがそんな風に言われなけらばならない?
自分だって言われてもおかしくない筈なのに、何もなかったように生活している自分は何なのか。
 
 
これらの記憶は、和らぐ事のない記憶です。
誰かを許すとか、許さないとか、そう意識するのも煩わしい。
かといってその事を忘れようとするのは、その記憶の存在を、かえって大きいものにしてしまう。
自分の背中にずっと張り付いている、血を吸うダニのようなものです。取る事も殺すこともできないけれど、触れずにいればどんどん大きくなるわけでもない。うまくやればその存在も薄められる。
そう、触れずにいれば。
 
 家族で共有している記憶は、自分一人しか知らない記憶よりも厄介です。
せっかく薄れかけていた記憶を、家族がわざわざ蒸し返すことがあるからです。
 
極たまにですが、父は思い出したように言います。
「あんな事もあったよなあ…あいつらは今どうしている?」と。
父の無神経な問いかけに私は笑いながら、まるであんな事は、
「遠い昔の、子供の頃の、今になって思えば取るに足らない、笑って話せる事」として、父と談笑します。
そんな自分が、何よりも嫌で嫌でたまりませんでした。
 
笑いながら、( 自分はなぜ笑っているのか?)と自問しつつ、この空気を冷たいものには変えたくないのです。その記憶が、私にとってどれだけ重いのかを、父に悟られたくない。そして、どこかで父に気を遣う自分がいる。
 話を終えその場を離れた後に、じわじわと自分を包み込む嫌悪の増殖。
 
そういった性の記憶は、 多くは家庭の中の記憶であったりします。
性に対する身だしなみのような躾が、充分にされなかったように思います。
そのくせ、家庭の中で大っぴらな性の会話がなされたりする。
大人に囃し立てられた、意味もよくわからない性的な仕草を、喜ばれる事が嬉しくて、幼い自分が何度も披露する。そして成長すれば、その事を懐かしい思い出話として何度も語られ、あたかも子どもが進んでそれをしてきたかのように、あちら側の仲間に入れられてしまう。
 
私は、頼まれ事をうまく断れない所があります。それが自分にとって不快な事であっても、強く押されればそうせざるを得ないと追い込まれ、諦めてしまいます。
また、自分のした言動で誰かが喜ぶのを見ると、嬉しくてさらに何かしようと思います。
 
これは幼い頃の、家庭の中での私の役割だったのではないかと思います。
 
成長するにつれ、それらの記憶がしだいに、より不快なものへと変化していきます 。思春期を迎えた私は、自分が汚れているように感じました。それは過去の出来事そのものよりも、それを招いてしまった、許してしまった自分が、許せないのです。
 
成長していく私は、中性的だった子どもから女性的な心身に変化する事に戸惑いました。あきらめがつくまで、女性であることに嫌悪感を抱いていました。
自分に自信がなく、自分の意思を通すことができない。強く言われれば逆らえず諦めてしまう。
 
その思いをさらに強めたのは、飼い犬の死であったようです。
 
それから私の恋愛観は歪曲したように思います。
 
母は高校生の私に、もしレイプされたら、抵抗してはいけない、暴行を受けても命を守りなさい、と話しました。
(そんな母も似たような経験があるのだろうか? 私は娘にはなんと言えるだろうか?)
私は自分が誰かに襲われることを想像してみます。
私ならどうするだろう。
笑いながら了解し、隙を狙って相手を刺してやろうか。
例え殺されなくても、激しく抵抗する事が全くの無駄であった時、死を選ぶほうが救われるように思うのは、許されてもいいような気がします。自らの死を選ぶのなら、相手に死を望むのも同じことではないか?
無駄な抵抗とわかっていても、あきらめてはいけないと、誰も教えてはくれなかった。
万が一の抜け道があるかもしれないと、誰も一緒に考えてはくれなかった。
また自分自身も、誰かに助けを求める術を知らず、求めることさえ選択肢にはなかった。
 
誰かを思いきり好きになれない。
誰かに大切にされる価値がない。
誰かが私を大切にしようとしても、私はそれに応えられない、むしろ、何かの罰を受けなければならない。
 
そして知らず知らず、私を大切にしない人達の中に、自分の身を置くのです。
 自分が堕ちていくのを感じます。現実に戻りたくないほどに。
 
人から見れば、何故私が意味のないように思える行動を取るのか、わざわざ自分を傷つけに向かうのか、わからないでしょう。
時には悪ふざけと受け取られたかもしれない。
しかし私は真剣だったのです。いつだって大真面目に生きていたつもりです。 
ただただ探し物をしていたのです、答えはどこにあるのかと。
 
 
汚れているのは、自分ではなかった。
汚れているのはあちら側の人達であった。
とは言え、その人達全てが悪者で、自分の事しか考えない、冷たい人というわけではありません。むしろ社会では人当たりも良く、印象の良い人達です。
 
しかしあの人達は、お前も望んだ事だろう?と、俺達の仲間だろう?と、私に共犯を迫るのです。私は疑う余地もなく、そうなんだと思いその記憶を封印しました。
 
 
今の夫は、私から好きになりに行かなければならない人だと感じました。
何故なら、彼もまた自分から近づいてはこない人だからです。それなりにアクションはしてくれますが、基本的には受け身の人です。
 
心理士さん曰く、惹かれ合う2人というのは、お互いに、自分の足りない部分を、相手と補い合うために惹かれる。
そして、一番大切な価値観が同じだからこそ惹かれ合うのだと。(まるで惚気のようだ…)
 
そんな夫でさえ、もし娘に何かをすれば、私はためらう事なく娘を守るつもりです。
そう、あちら側の人達が私にしてきたような何か。
それだけは揺るがないのです。
 
もちろん夫であれ、息子達であれ、世の男性という性に対しての、私の覚悟であり決意です。
 
娘を守りたいーー障害のある娘を育てるうちに、その思いがさらに強められたのかもしれません。
もちろん息子達も、加害だけでなく被害を受ける立場にもなり得る。
娘と共に、息子達にも言って聞かせねばならない性教育です。
 
 
 『スペクトラムしい日々』と『Book of the night 』は、私の中で二重螺旋のようにシンクロしています。
 自分の言葉を置くこの2つの場所で、自分のバランスを取り合っていたと思います。
 
娘のことは、発達に関わることであると共に、私の中にある、過去の自分との関わりでした。
 
自分の過去の出来事は、もう過ぎ去った事として終止符を打ち、生活していました。
しかし、娘と共に窮地に追い込まれるうち、ゆっくりとその闇に自ら近づいていたのでしょう。
娘を、家族を道連れにして。
そして再び、その引き出しを開けざるを得なかった。
しかしカウンセリングによって、それ以前と以後の心の在り様は変われたと思います。
自分なりに引き出しの整理ができ、中のものを畳み直し、もう一度引き出しに収められたと思います。とりあえず、当面は。
 
自分のこれらの過去が、今も苦痛で辛い記憶と言えるのかはよくわかりません。かなり時間が経過しましたし、思い出す暇もなくなりました。
 
少なくとも私は私以上に、重く、動かしようのない記憶を抱えている人達を、見て、聞いて、読んで知っています。そして私の知らない、膨大な数の人々を思います。
そして、自分はそれほど不幸ではないと、自分を甘やかさないよう心がけていました。
 
だから私には、「これらの事が苦痛だった、長年重くのしかかっていた、それがその後の自分にも大きく影響した…」
そう認めて良いのだと、許して良いと思えるのに時間が要りました。
しかし本当は「誰が誰よりどのくらい」というものではないのです。それはわかっているつもりです。
 
それでも今でさえ「そんな大げさな事として受け止めてもいいのだろうか?」と思う自分がいます。
それは、自分を労っても良いのだろうか?という戸惑いです。
この癖はなかなか治せないものなのかもしれません。
 
何故、記憶の告白をしようと思うのか…
 この場所では、色々な方達のお話を目にする事ができます。心温まるお話や、悲しみを共有させてもらうようなお話も。
辛いお話の中に、勇気をもらう事も多くあります。
 
何か…言葉にする事で何か、自分を確認できるもの…
自分は何者なのか?
自分が探してきたものは何だったのか? その答えは? それは正解なのか?
 
思いを言葉にすることは痛みを伴います。形のないものを、形にすることのエネルギー。文字よりも会話にすることのほうが、尚更エネルギーも勇気も必要とします。
 
 また、このような告白は、自分の苦痛の一部を相手に移動させてしまう事があります。それはとても心苦しい事です。しかし傷つけてしまう覚悟で、敢えてやらなければならない場合もある、と信じます。誰かを傷つけることは、自分を傷つける覚悟でもあります。
 
私にはまだ、自分の記憶を口から語り出す事は難しい。
カウンセリングでも、抽象的な表現や間接的な1つ2つの出来事を、やっと伝え始めたばかりです。
もしもまた、カウンセリングをする機会があれば…これらの事を口で語る必要に迫られたら、できるかもしれません。
でも今は、文字にするのが精一杯です。 そして、それを置いておく場所を見つけられた事が、私には救いなのです。
 
過去の自分がしてきたように、たった1人、机に向かって書きなぐる日記だけでは、この思いを消化できない。
あの人達にぶつける事は無理だとしても(言うつもりにもなれませんが)、ここでなら引き出しを整理してもいいかもしれない。過去の自分が多少なりとも報われるかもしれない。
 
私はもう、私の記憶に、口を閉ざし続ける年齢ではないような気がします。
自分には自分の事しか語れない。
自分の事でしか、何かを表現できはしない。
私の記憶は、たった1人の、たった1つの記憶です。(以前読んだブログの方の言葉と重なります)
だから私が語っていいのだと思います。
 
 これは今の私から過去の私への懺悔なのです。
 
過去の自分がその時の自分を許さなければ、今の私が安心して娘を、家族を守れないようにも思うのです。
あの時吐き出せなかった思いに、今の私が耳を傾けなければ、過去の私は癒えることができない。今の私が代弁することで、過去の自分を救うことができるのではないか。
 今の私は、過去の私をすでに許しています。
同じように、30歳の、20歳の、高校生の、中学生の…私が、過去の自分自身を許せるように…語らせてほしいのです。
 
ここを通り過ぎる人は、そのまま通り過ぎようと、走り去ろうと自由です。だから私が、ごにょごにょと呪文のように唱えることを見過ごしてください。
 
だから、ここまで読んでくれた方、どうもありがとう、感謝します。愛してます。
 
感謝を込めて、たくさんのキスを心に送ります。