スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

支援の向こう側

娘の高校進学について、基本的には高等支援学校に進んでほしいと考えています。

オットは普通科にせよ職業科にせよ、普通高校に行ってほしいようです。
 
それは(定型児の) みんなと一緒に(定型児と同じ環境で) 学校生活を(定型児と) 楽しく過ごしてほしいと考えているからです。
ちょっと意地悪な書き方になっているかもしれません。
 
はっきりと話し合ったわけではないのですが、オットは発達障害というものについての知識がまだ曖昧だと思います。
そして「障害」というものが、まわりから理不尽な扱いを受け、社会の弱者であると考えているように思います。
 
それ故、娘をその括りに入れてしまうのにためらいがあります。
だからきっと、普通高校に入って普通に学校生活を楽しんでほしいのだと感じました。
 
(普通ってなんだ…)
 
そして娘は、今はまだ普通高校と高等支援学校の違いがよくわからない。
そもそもどんな高校があるのかさえ、よくわからない状態ではあるけれども、
今一緒に過ごしているみんなと、小学校から中学校に上がってきたことと同じように、高校という場所に流れていくのかな・・・と漠然と考えているかもしれません。
 
しかし、仮に娘が普通高校を望んだとして、どんなメリットがあるというのか。
 
ただ普通高校に通った、
(定型の) みんなと同じ高校に通った、
そのことが娘の将来にどれだけの利益になるのか。
 
利益…苦手な言葉ですが、せめていい思い出として心の支えになってくれたなら、無駄とは言えないかもしれませんが・・・
 
娘の思い出として心の支えになるのだろうか?
 
それは第三者が決めつけられるものでは全くない。
だけど勉強が嫌いで、友達づきあいも苦手で、かといって1人が好きというわけでもなく、かと言って自分から入れない。
そんな娘が支援を受けられず、まるで置物のように教室の席に座っているだけの3年間なら、
 
例え「エゴでしょ?」と言われても私なら要らない。
(むしろ普通高校に通わせるほうがエゴなのでは?)
 
しかしその判断を自分ですることは、娘にはまだできないのです。
 
正直、障害についての印象を聞かれれば私だって、差別や偏見やいじめからは避けて通れないように感じますし、そういう事実があること、そのような場面に出くわすことも多くはないですが、あります。
 
そして障害者を弱き者、守らなければならない者、継続した支援が必要な者と捉えています。
娘がその立場であるということに、悲観的にしか考えられない時期も当然ありました。
 
今だってないわけじゃありません。
 
だけど「このほうが幸せだろう」という、親の思い込みとも言えるイメージで、未来を想像できないまま安易に決めたくないのです。
 
どう前に進むべきか大人が知識を得て、ある程度導いていく必要があるのではないか?
こっちだよ、この道のほうがあなたにとって歩きやすいよ、急な坂道がないかわりに緩やかなカーブがあるよ、あなたの好きな色の石があるよ、みたいな。
 
中学校に入って、普通学級の授業についていくのが難しくなり、
誰かに相談するでも、声をかけるでもない娘は、静かに座ってノートを取ってはいるかもしれません。
それでも先生の目にはあきらかなわけで。
 
娘のプライドを傷つけないように、少しずつ支援学級で個別に勉強する時間をそれとなく増やしてもらう。
そこで「できた」という自信がちょっとずつ、積み重なっていくといいなと思いつつ。
 
そのように授業を受けることで、学力は低空飛行ながらも維持はできるかもしれない。
 
今は少子化で、この辺の地域では定員に空きのある高校も少なくありません。
名前と受験番号を書いて、0点を取らなければとりあえず入れる学校もあると噂で聞きます。
そんな高校に行くよりは、学力重視にせず高等支援学校への進学を目指して授業に臨んでほしいです。
 
その先の向こうには何があるのか?
 
そう。
高等支援学校に進み、娘が好きなこと、取り組んでいけそうなこと、
そんなものが働くことへの関心や意欲に繋がるといい・・・と思いつつ。
 
そうスムーズにいくだろうか?
 
やはり壁が見えるのです。
「なぜ自分がその高校に行かなければならないのか?」
「多くの友達は通学しているのに、なぜ自分は寄宿生活をする必要があるのか?」(通学可能な高等支援学校が地域にないため)
 
そう聞かれたら何と答えればいいのだろう。
 
きっとその過程で、娘の障害について・・・特性について触れなければならない時が来ると。
 
そこに行き着いてしまうのです。
続く。