今まで生きてきて、自分の身近でその風景には直接出会わなかった。
ただ、自分の身近な人の中には、その風景を見ている人が時々いる。
過去の恋人の祖父。
その恋人もまた、死というもののそばで生きているように感じた。
生きているそばに死があるのではなく、死のそばで生きているという印象。
友人の恋人。
友人は新しい恋人と結婚したが、うまくいかず自分を責めていた。
職場のお客は「僕の恋人は死んでしまう。僕とつきあうと死にとりつかれるよ」と言った。
自分の1番身近な人は、昔の同級生だった。20年前のこと。
当時10年くらい会うこともなかったので、その連絡を受けた時は、あまり動揺しなかった。
冷たい人間なのかもしれない。
(発売されてすぐに買ったつもりだったけど、見てみると初版から1年ちょっとたっていて、26刷りのものだった)
これまで3度は読んでいると思う。
買ってすぐに読んだ時は、正直つまらなかった。( すみません… )
恋愛小説にあれこれてんこ盛りしてる気がした。
もう読むことはないかな、と思った。( たくさんは読んでませんが、村上さんの作品は好きです、『世界の終わり…』がお気に入りです )
2度目に読んだのは、結婚して何年かした子育て中の頃だったように思う。
どんな話だっけ…と何となく気になったのだ。
あらすじは大まかにしか覚えていなかったので、はじめて読むような新鮮さがあった。
その時は「どうして村上さんはこの物語を書いたんだろう」という漠然とした疑問が浮かんだ。
3度目は昨年だったろうか。
単純にもう1度読み返したくて、何かを読み解きたくて読んだ。
村上さんは何を伝えたかったのか?
その答えは、わたしの中にしかないのかもしれない。
物語は、1文字も変わらず、20何年も部屋の隅に佇んでいた。
変わっていったのは、わたしの中の何かなんだろう。
その物語は、始終、薄暗く重苦しいような空気を漂わせているように感じる。
これから朝が始まるのか夜が始まるのかわからないほど、薄暗い霧のなか、
森が背後にあって、草はらの上に立っているイメージ。
しかし、最後の流れは、その霧がゆっくりと晴れていくような、苦々しい爽やかさ…に感じた。
爽やかなのに苦々しい。
自死のみえる風景は、時間や場所を移動しても、常につきまとうもののような気がする。
その風景を横切った誰かの記憶に入り込んで、影を落としそうな不安を抱いてしまう。
だから、たとえ何年、何十年かたって、違う場所に自分が生きていたとしても、その風景を思う時、苦々しさがつきまとう。
だから、苦々しさは消せなくても
爽やかさを漂わせていたい。
潔さというか、しなやかさというか。
そしてやはり、逝ってしまった人よりも、その風景に取り残された人たちを思い巡らせてしまう。