スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

「死」を乗せた貨物列車

最近、母のことを思うようになった。


私がまだ家族と一緒に住んでいた頃、母は家の中の出来事を知っていたはず。
なのになぜ、何も言わなかったのだろう。男達の言いなりになっていたのだろう。
実は母がある意味、ひとつの鍵になっているような気がした。
それで、母に纏わるエピソードを色々と思い出していた。
 
幼い頃の母の記憶は、とにかく忙しそうな人。ピリピリして話しかけるのもタイミングを見計ってしまうほど。
もちろん常にではない。優しい母の姿も覚えている。
あとは、子どもの頃の母のイメージが、大人になってから覆される事は時々あった。
例えば、子どもの頃の母は、生き物に無慈悲な印象だった。しかし大人になってみると、実は生き物が好きな人なんだなと感じた。
そのギャップがなぜ生じるのだろう。
 
無慈悲な母の記憶。
 
昔、生家には犬も猫もいた。
猫は誰かが拾ってきたか、貰ってきたみたいだった。
2匹いたことを覚えている。ヨモの母猫と白黒の仔猫。
小学校に入学する前か後の頃、一緒に住んでいた叔父さんが車に猫達を乗せている。
「どうしたの? なんで車に乗せるの?」
叔父さんは一瞬バツの悪い顔をしたがすぐに笑顔で言った。
「貰ってくれる人が見つかったから届けてくるんだよ」
私は猫達が大好きだったので、本当は連れて行ってほしくなかった。だけど猫達を欲しいという人がいるなら仕方ないのかなと思った。
それにしても手放そうとしていたのは気づかなかった。
そして叔父さんの車を見送った。
 
何年か後になって、あの時の猫達は山奥に捨ててきたと聞かされた。
私が母に「あの貰われた猫達」の話をした時、呆れた声で真相を教えてくれたのだ。
とても驚いたけど、あの時の叔父さんの顔の謎が解けた。私は騙された事に悲しくなったし、猫達が捨てられた事にショックだったけれど、それでも山の中で、元気に逞しく走り回っている猫達を想像していた。
 
ある時、近所で猫の死骸を見つけた。
模様が白黒仔猫に似ていたので、もしかしたらあの猫…?と怯えた。そして心の中で念仏を唱えた。
 
その頃だったか、もう少し大きくなってからか聞いた話がある。
その猫達が捨てられる少し前の出来事だったのだろうか。
親猫が生んだ数匹の赤ちゃん猫を川に流したと聞かされた。
川に流されていく、まだ目も開かない赤ちゃん猫を想像した。悲しかった。
 
そんなふうな生き物の悲しい扱いが、時折見られる家庭だった。
これは今でなら色々と問題視される話なのだろうが、40年も前の、農村部ではそれほど珍しくない話かもしれない。
 
犬猫はベットというよりは生活の便利な道具であった。
犬は泥棒よけのため、猫はねずみ退治。
避妊手術も、犬の散歩もろくに見た事のない時代と地域の話。
人間様が生き延びるために、動物の命など二の次三の次であった、貧しく厳しい時代を生き継いできた人達の話だ。

編集長、これでいいですか?

『6年間の思い出』
小学校6年間をふり返ってみると、とてもあっという間のような気がする。
反対にとても長かったようにも感じる。
1、2年生の時の事はあまり覚えていないけど、毎年運動会や発表会があって皆んなで練習した。
社会見学や遠足、お楽しみ会も毎年行われて、楽しかったような気もするし、面倒くさいけど仕方なくやっていた気もする。
今年の発表会では、練習はしたけど本番は出なかった。皆んなとても上手に劇をやっていた。やっぱり出たほうが良かった気もするけど、出なくてほっとした気もする。
小学校の思い出は、良い思い出もそうじゃない思い出もあるけど、卒業したら全部思い出になってしまうので、大人になった時に少しでも良い思い出が思い出せたらいいなと思った。
中学校に入学したら、どんな思い出が作れるだろう。


編集長からオーケーをもらったので、この原稿はボツにはなりませんでした。
娘はさらさらといとも簡単に清書しました。


良い思い出ばかりでない思い出を書くのは、娘にとってどう書き出したらよいのかわからないかもしれない。
ましてや、卒業アルバムの作文は、暗に良い思い出、未来への夢や希望を求めている。
もしたった今が、過去に良い思い出もなく、未来への夢や希望に満たされていない子ども達は、
一体この苦行をどんな思いで乗り切るんだろう…。
そんな事、今まで考えた事もなかった。
つらい思い出を持っている子は、例えたくさんの良い思い出があったとしても、その影になって隠れて見えないだろうな。
でも大人になって、かなり時間を置く事で、少しでも客観的になれて、良い思い出も少しは思い出してくれるかもしれない。
そうだといいな。
だけど今、良い思い出が思い出せないのも事実なわけで、その正直な気持ちも大事に残してほしいと思う。
だからもし、卒業アルバムの作文で悩んでいる子がいたら、
下手くそな、ありきたりな文章だけど、もしよかったら、使ってみてください。
こんなちっぽけな事で何日も頭を抱えるよりずっと、もっと大切な何かに時間を使ってほしい。



ブルータスお前もな!

「その本にどんな事が書いてあるの?」

先日、私が図書館から借りた本の事で兄2が聞いてきました。
『自殺する子どもたち』

 

自殺する子どもたち―自殺大国フランスのケア・レポート

自殺する子どもたち―自殺大国フランスのケア・レポート

  • 作者: エレーヌリザシェ,シャンタルラバット,斎藤学,H´el`ene Risacher,Chantal Lasbats,白根美保子,中井珠子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 単行本
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何やら物騒なタイトルですが、フランスの若者の自殺について研究、分析されている本です。また、自殺を図った子どものインタビューや、遺族のお話や活動などが載っていてとても興味深かったです。
そのような事を簡単に説明すると、兄2は「自殺する人って…」みたいな話を始めました。私はふんふんと聞いていたのですが、彼が話を切り出した最初から、彼に聞いてみたかった質問をしてみました。
「ねえ、自殺したいって思う?」
してみたいか、とか、してみたかった、ではなく、現在断定形的質問です。
兄2は今どうこうは考えてはいないが、もし、するとしたら計画的に、成功するように考えると答えました。
私は思わず「ブルータスお前もか…」という気分になったのですが…。
最近、兄2は少し難し気な本を読むようになり、例えば太宰治とか、愛着障害とか。まあ、そういうものに興味の出てくる年頃ではあるかなあと見守っていました。
自殺を含め「死」というものについても、人は誰しも成長の過程で1度はそんな謎や疑問にぶつかる事があると思うのです。
自分はどこから来てどこへ行くのか、そして今ここにいる場所は一体どこなのか…。
そういう意味では、うちの子ども達は正常に?成長していると考えてもいいかもしれません。
また、その事をこうして親に打ち明けたりぶつけてくれる事は、良くも悪くも、少なくとも私にとってはありがたい事です。本当はこういう話は親には話さないものなのかもしれないし、親に話すという関係が必ずしも良い関係とは言えないかもしれませんが。
兄2は普段、自己主張する事がなく、感情をぶつけてくる事もあまりしません。かと言って言われるがままというわけではなく、自分なりの考えをはっきり持っているし、好き嫌いもあるので、不快や怒りといった感情も抱いているだろうなと思います。ただ、それを表には出さずに飄々としたスタイルを取っている印象です。そしてそれが自分の姿なのだと思い込もうとする節があります。
きょうだいの中では1番、私に対して優しさを表現している子です。気遣うというか、遠慮しているとも言える…。
まあしかし、うちは全体的にそういうタイプの子ども達ではあります。
自分の意思や感情をあまり表出せず、言い争いを嫌い、生きる事に消極的で、生きる力が弱々しく思える…肉体的にも精神的にも。
娘には発達特性があり、兄1はどちらかというと弄られやすい性格で、2人とも登校拒否や死んでしまいたい、という言葉を口にした時期がありました。今も言わないだけで、そう思っているかもしれません。この2人に交互に手をかけている間も、私の中ではいつも、何となしに兄2の存在が気がかりでした。
子ども達の中で1番心配なのは、実は兄2なのではないかと、幼い頃から危惧していたからです。
幼い頃の子ども達を思い浮かべると、兄2は1番自己主張のはっきりした子で、2歳頃の反抗期では、1番駄々をこねていました。自分の思い通りにならないと (これは単なるワガママではなく、彼なりの筋の通った考えなのです)、もう何もかもおしまいだと言わんばかりに泣き崩れ、気持ちの切り替えがすぐにできない子でした。
なんか、そんな特性ありますよね。
私はこの子の成長が1番不安に感じたものです。
しかし幼稚園に入ってから、彼は集団に溶け込んで、いわゆる親を困らせるような行動はなくなっていきました。協調性があるというのか、周りをうまく和ませたり。すぐに友だちを作っては家に連れてきたり。
ただ、その友だち関係には彼なりに気を遣っているように思える時もありました。また、幼稚園の先生から、彼が何度も同じ質問をする事があると言われました。それは彼が先生の話を聞き漏らすのではなく、自分が耳にした話の内容が本当に合っているのか、聞き間違いではないか気になるのです。
その頃、私も何度か同じ事を先生に確認する事があり (以前、生まれたばかりの娘にワタワタしていて、園行事を見落とすところだったから) 、何となくそういうの見てるのかな…なんて思っていました。
心配性というのか神経質というのか、そういう性格は持ちつつも、それなりに成長していた兄2ですが。確かに時折その心配性な面が顔を見せる事があって、その時々に対応してはいましたが、不安症、とまでは感じませんでした。
人との関わりが円滑で、彼の周りはいつも朗らかな空気に包まれているように思えました。そう見えても、彼が多少無理をしている部分があるのでしょう。
突然爆発する事もありました。それは暴力とか暴言ではなく、逆に内に籠るような無言の爆発なのです。
そんな事が時折あったので、兄2に対しての私のイメージは、一見問題なさそうで実はここぞという時に脅威という感じです。
そんな兄2が、自殺の話を私にしてくれる、自分の考えや周りの人達について感じた事を正直に話してくれる。
内容はともかく、話をする対象として母親であるにも拘らず私を選んでくれたのは、母としてよりも、いち大人として素直に嬉しいです。私は彼が何を感じ何を思うのかが、とてもわかるような気がします。私も昔その道を辿ってきたからです。また彼も直感的にそれを見抜いたのだと思います。
彼は生きている実感があまりない。好きな事やりたい事がわからないし見つからず、生きているのが辛いというより意味が見出せないようでした。
子ども達がみな口をそろえて同じような話をする。
自殺の本にも書いていましたが、自殺は社会的な問題であり、家族的な問題なのだそうです。
やはり家庭の中に間違いなく死を感じさせる何かが漂っているのだろうな…。それを改めて確実なものにした印象です。
それはつまり、私自身の問題がまだ根強く、その芯が取り切れずに根を張っているのだなあと胸に刻むのでした。
彼には折に触れ、私の事を正直に話すべきだろうと感じました。そうでなければ、自分がなぜそんな事を考えるのか、学校の楽しげな友だちと自分との違和感に理由が付けられず迷路から出られなくなるのではないか。
彼に発達の特性があるかはまだわかりません。しかし彼が幼い頃は、少なくとも疑った事はあります。
私は今カウンセリングを受けていると彼に話しました。兄1も娘も形は少し違えどカウンセリングを受けた事があるし、娘は今も心理士さんと定期的に話す機会を持っていると。
私でよければいつでも話を聞くよ、と彼に話しました。ただ私は専門家ではないので、あまり良いアドバイスはできないだろうから、もし行き詰まったら、あなたもいつでもカウンセリングできると伝えました。
兄2は、カウンセリングそのものもそうですが、精神科や薬については否定的です。誤解や偏見もあるようなので、私なりに説明して、人間誰しもそういう状況に直面する可能性があるし、病院に行ったからといって、失格者ではないと話しました。
そして週末、2人でドライブに行こうと誘ってみました。

サスケ、写輪眼お願い!

体のどこかに傷を隠し持っている。ガーゼと油紙で覆われている傷は、何ともない、もうじき治るよと言い続けてきたが、実際は膿を持ち細胞の奥深くまで浸潤している。しかし痛みがあるとは自分では思えなかった。
それならばとその傷に覆い被せているものを剥ぎ取り、膿を抉り取ろう。
膿はもう体の一部ではないから、取り除いても痛みはないはず。
それなのに膿を掻き出しその傷穴が空気に触れる間もなく猛烈な激痛が体を襲う。痛みのあまり両眼から涙が滲んできそうになる。
しかし泣いてはいけないのだ。泣くことを禁じられているから。笑え、口角を上げて歯を剥き出しにしろ。
それでも眼が潤い始めたら、きっとそれは涙ではなく血が滲み出ているのだろう。
目から出る液体が紅色ならば、誰も口を挟もうとはしないはず。

9月の頃の話2~ツンドラまでは凍土じゃない

今年度に入ってから担任の先生と2回目のご対面。しかも家庭のテリトリーで。

ちょっとだけドキドキしましたが (わたしが!)  まあ、見た目何事もない光景でした。先生がふたつみっつ話しかけると娘も「はあ、はい」とややぶっきらぼうに答えます。そしてさり気なくその場から遠ざかろうとする娘…

先生が思い出したように「来週、卒業アルバムの個人撮影があるから学校に来てくださいね」と声をかけました。

「あ、はい」

え?マジほんと?

わりとあっさりな「はい」なので二度見したかもしれない。
その時は日時を聞いて、まあ来れたらおいでよ的な軽い感じの提案だったのですが (ダメもと感満載で)
娘にとってはまたとないチャンスなのでは…?
できるなら成功体験にしたい。
だって娘がイエスと言ったのだから (その場しのぎの返事かもしれないけど)
 
写真撮影の前日、ちょうど良いタイミングで通級指導教室の相談日になっていました。
ここには1学期に1度だけ母娘で面談していたので、その後の流れを説明しました。
そして『登校刺激とスモールステップ』についても相談したかったのですが…
ちょうど明日登校することになっていると話をすると、
「その時間に何となくぶらりと行くよりは、娘さんが所属してる班の撮影する時間帯に合わせてみるとか、時間が来るまでどこか指定の場所で待機していて、時間になったらお友だちに呼びに来てもらう…という工夫をするほうが、帰属意識が高まるのではないか」と。
 
…長いこと発達の子ども達を指導しているだけあって、さすが目のつけどころが細かい。思わず唸ってしまいます。
わたしと担任の先生からは生まれてこない発想です (2人ともざっくりな性格なんで)。
それからもうひとつ….娘は夏休みに入ってすぐ、担任の先生に会うため来校しているのですが、それきり学校へは行っていません。
明日行く前にもう1度学校へ足を運ぶ機会があったら、ワンクッション置く意味でもよかったろうけども、もう明日のことなので、今日これから学校に誘って行ってみるのも明日のためには1つの手段になると。
…結局娘を誘ってみても「明日でいい」と気が乗らないようなので無理に行くのはやめました。
 
そして撮影の当日、『少し早めに向かって保健室で待たせてもらい、時間がきたら友だちが呼びにくる…』という脳内シナリオを先生と設定。
娘の表情からは緊張感が漂っていましたが、学校に行く準備もしてくれたし、車にも乗ってくれました。
保健室でも落ち着いて待っていてくれました。
そして友だちが呼びにくる…(ここは娘には話しませんでした。逆に身構えてしまうかなと思って…)。
友だちが呼びにくると一瞬顔がこわばったようでしたが、誘いに応じて教室までついていきました。
途中階段を上りながら、(今、どんな事を考えているんだろう)…とヤキモキしながらも、わたしはお友だちに一生懸命笑顔で話しかけて雰囲気作り。
撮影場所に着いてからはスムーズに流れに沿って撮る感じ。
何人かと顔を合わせますが、「あ、… (娘ちゃん来たんだ〜)」というリアクションで、わりと自然な感じ。
ちょっと残念なのは、撮影が早く進みすぎて、娘の班のひと達は終わってしまい、結局娘が1番最後だったことです。
まあ、予定は未定だよね…。
 
とにかく6年生になって初めて、「友だちのいる学校」に足を踏み入れたわけです。
ドッキドキの写真撮影だったのですが、帰りがけ娘に「緊張した?」と聞いてみると
「別に」との返事。
ああ、質問じゃダメなんだよね…共感じゃなきゃ…
ほんとツンデレなんだよなあ…
 

9月の頃の話

10月、発表会の練習に何度か足を運んだ事で、娘は学校という場所や教室という空間へのハードルが少しだけ低くなったようです。

実はその練習の前に、足を運ぶきっかけがあったのでした。
 
医師からは特性が重いと説明されつつも、登校刺激は気にせずやってよいと言われていました。

 

  • 「中学校までは理由などなく『学校に行く』ことを前提として考えてもらう。
  • スモールステップで少しずつアップしていく。それが本人の目で見えるように。
  • 試行錯誤しながらも気づいたら到達しているような状態に持っていけるとよい。
  • 字義通りに受け止めてしまうので含みを持たせない…噓つきと思われ信用されなくなる (学校で勉強するしなくてもいいよと促してしまうと「勉強しなくていいんだ」と思われてしまう)
  • 社会に出た時に求められるのは勤勉さ…きちんと通うこと、調子が悪くてもまず行ってみるという勤勉さが大事
医師のお話は説得力があり、納得もできるのですが、じゃあ実際どんな風に登校刺激をして行けばいいんだろう…。
多分医師は、担任の先生や学校と話し合いながら進めてもらいたいと考えているのかもしれません。医師からいちいち細かいことを指示したり指導するものではないと…。
それでも私としては心もとないわけで。
 
学校側は、2学期が始まる直前にケース会議 (のようなもの) で情報の共有をしてもらいましたが…そして学校に足を運ぶことへの協力は惜しまない姿勢なのですが。
あくまでも「家庭からの要望があれば」なのです。
担任の先生からのアプローチは今まで通り、週末に家を訪ねてきてくれる。
しかし娘が会いたがらないので、玄関先で私がプリント類をもらい立ち話をする。
もし私が「今の状態をもっと進展させたいんだけど何とかしてくれ」と言ったら動いてくれるんだろか…
 
その頃、適応指導教室への足が遠のき、しばらくお休みすることにしました。
「勉強」の文字がチラつき始めると気持ちが下がってきたようです。
とにかく、特性がどうこうなんて落ち込んでばかりもいられず、とにかく深く考えずに一緒にやろうと声をかける (一緒にが肝心)、外に誘ってみる…毎日とはいかなくても誘いに乗ってくれることがあればラッキーな感じで…
 
ある週末にふと思いついて、先生が訪ねてくる時間にそれとなく庭の草むしりに誘ってみました。娘はそんな時間だとはすっかり頭にないようで (もともと関心もない) うまい具合に乗ってきてくれました。
そして家の敷地内で初のご対面…どうするどうなる?
 

DEAR MY TEACHER. Ⅱ

本当に未来なんて予測のつかないものですよね。

発表会の練習前は、スモールステップと言われても、具体的にどのくらいの感覚で進めていけばよいのか戸惑いはあったのですが…
学校へ足を運ぶ経験が少し積み上げられた事で、次につなげやすくなった感じです。
これからは娘と先生と(とりあえず私も) 話し合いながら、計画を立て、実践してみて、どうだったか見直してまた次へ…みたいな感じでつなげられるとよいのかなと思います。
娘にとっては登校が義務的なものでしかないかもしれませんが、そうだとしても「この位であれば足を運べそう…」な手応えを実感して、少しずつ自信を持てるといいなと思います。雪が降るのが待ち遠しい冬になりそうです(笑)。いえ、焦りや過度な期待はないつもりですが…。
 
障がいという言葉の捉え方も、昔からみると変わってきている気がします。
発達障がいについても、娘がはじめて診断を受けた頃と比べて、色々な事がわかってきて、療育や治療も進歩してきていると思います。(残念ながら、トンデモナイ方法もついてまわるのは、障がいや病気のサガですが)
 
3歳半で障がいを知った時はやはりショックでしたし、今に至るまで何度も「障がいがなかったら…」と思ったし、健常の子どもさんがうらやましいと思ってきました。多分この気持ちは一生続くと思います。
こういう負の感情を抱くと、その子を受け入れていないとか、後ろめたさのように取られがちですが、私はそれはそれで別なんじゃないかな、と思っています。
障がいや病気を受け入れる事をよく美談にされがちですが、負の感情は持っていていいと思う…だって宝くじが当たったように喜べるものではないのだから…。
 
娘のしんどさをできるだけ取り除いてあげられればいいな…とは思うのですが、「こうなってほしい」という願う事は、正直、本当はないんです…多分…。
ありのままで生きられるなら全然かまわない。でもありのままでは生きられない、生きづらいから、あるべき姿(社会がこうあってほしいと思う姿なんじゃないか?) に近づけるよう支援しているわけで…。
 
理想を言えば、障がいのある人が変わらざるを得ないのではなく、社会がその人に合わせる、寄り添えるといいのにな…と思います。
もちろん本人が望むのであれば、支援は惜しみませんが…。
そうでなければ、ただ「させられている」としか感じないのかもしれません。
難しいテーマですよね…。