スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

世界自閉症啓発デー

 

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とても素敵なポスターですね。

 

日本の片田舎に住む私にとって「世界」と名のつくものは遠い雲のような存在です。

娘とのかかわりに頭を抱えたり、気をもむ生活の中、せいぜい住んでいる地域の教育や福祉、医療のあり方をあれこれ思い悩む程度に、日々を過ごしています。

娘の特性を知った当初は、ワラをもつかむ思いで、手当たりしだい本を読みあさりましたが、かれこれ10年近い月日が流れ…こうしてスマホをいじっては、気になる記事を気の向くままに読む程度になりました。
 
それでも、娘と同じような特性のお子さんが日本のどこかにいるはず…と、気になる情報や、やはり知識もほしいところ。
そんな思いにちょうどマッチしたのがツイッターです。
 
ちょうどスマホを購入する機会が得られたのもよかったです。
(ずっとガラケーを利用するつもりでしたが、時代の流れもあり家族で購入)
それが、インターネットとSNSにかかわる入り口にもなりました。
 
自閉症スペクトラムは、大まかに分ける事はできても、1人ひとり特性が違いますし、もともとのその子の性格もあり、取りまく環境も様々です。
 
娘が通っていた小学校の支援学級や、地域の子どもたちの中には、娘と似ていると思うお子さんはなかなか見当たりません。
かといって、あえて名乗り出る…という事も現実的でないような気がして難しいです。
 
そもそもよく似た特性を探せること自体、可能性の低いことなのかもしれません。
 
現実には困難な時、インターネットは心強い味方になります。
(使い方をあやまると、おそろしい敵にもなるそうですが…)
 
私はツイッターやブログという世界にたどりついた事をありがたく思います。
そうでなければ、いつまでも狭い現実の世界の中で、不安を抱えながら右往左往していたかもしれません。
 
ツイッターで流れてくる記事やツイートの情報源である、特性のあるお子さんを育てていらっしゃる親御さん。
またご自身が特性のある方、そして親子を支えてくださっている様々な支援関係の皆様、いつもありがとうございます。
 (普段、あらためて言葉にする事がほとんどないので、せっかくだからドサクサに紛れて…)
 
身近な生活圏内程度の人とのつながりが、インターネットを利用する事で、日本のあちこちにお住まいの皆さんと広くつながれるようになりました。
 
あれほど遠く感じられた「世界」は、もうすでに身近な存在なのかもしれません。
 
9年前、娘が自閉症スペクトラムと診断されてから、初めて買った自閉症関連の本は、ローナ・ウイング氏の『自閉症スペクトル』(1998年初版) という本でした。
ウイング氏がたった1度だけ、来日された時のエピソードが書かれています。
そのお話が印象的で、自閉症と「世界」のつながりを初めて意識した内容でした。
今でも時々、ふと思い出しています。
 
「しかし私にとっていちばん貴重な体験となったのは、日本の親御さんたちとお会いする機会をもてたことです。
文化的背景が違っていても、互いに交流したり自閉症の子どものいる家庭で生活したりする経験を分かち合うのには、何ら問題がないことがわかりました。
日本とイギリスという別々の国で、まったく同じタイプの行動が異なったかたちで現れるのだと知り、とても興味ぶかく思いました。」
 
世界の自閉症の子どもたちに、いつか会えるといいな。
 

『シンクロしました、私』

娘は毎週『ヒガンバナ』を欠かさず観ています。
 
お笑いや仰天ニュースもの (ドキュメンタリーバラエティ番組と言うらしい ) も好きなんですが、ドラマは『ヒガンバナ』と『怪盗 山猫』がお気に入りのようで、今期ハマっているドラマですね。
あと嵐番組も何気に観てます。(誰かお気に入りがいるんでしょうか…)
 
ヒガンバナ』…一言で言うと刑事もの、と言えばいいんでしょうか…。
主人公の渚ちゃんが美しくミステリアスで、その不思議な能力は、ちょっと現実的ではない気がしますが…
娘はそういう少女なり、女性の主人公に惹かれるようです。
過去には『悪夢ちゃん』や『妖怪人間ベム』←(これはベラが、というよりストーリー全体の雰囲気がよかったのでしょうか)
『掟上今日子の備忘録』も観てましたね。
 
どこかミステリアスで影のあるヒロイン…。
そのヒロインに、自分を何となく重ねているのでしょうか?
自分でも無意識のうちに惹かれてしまうのでしょうか?
生きづらさを抱えながらも懸命に生きる、その強さを持つ彼女たちへの憧れなのでしょうか?
 
先週、娘は不登校からの脱却を目指して…(大げさですね)
祝日をはさみながらも、1週間何とかこなせました。
毎日遅刻してましたし、まだ母の付き添いがないと心細いようですが。
 
金曜日、学校の玄関から出てきた娘を出迎えます。
私「1週間頑張ったね〜」
娘「うん」
私「疲れたでしょ」
娘「腰痛い…」(掃除当番で掃き掃除したようです)
2人で車に乗って家に帰ります。
 
車を運転しながら娘に言いました。
「お母さんさ、2学期から、むー(娘の仮名)と一緒に教室にいたじゃない? それで感じた事なんだけど…。
むーは学校を休み出す前は、自分が教室にいるのが嫌だったかもしれないけど。
それはむーがみんなと同じようにできないとか、みんなの中に入れないとか、思ってたかもしれないけどね。
勉強だって、テスト100点じゃなくても、悪い点数じゃなかったけど、むーは満足できてなかったかもしれないけどね。
でも今は、みんなと違うところもあるかもしれないけど、何となくこうやって教室にいていいんだって思えるようになったんじゃない?」
「うん…」
「お母さんは、むーと一緒に教室にいて思ったのはね、むーは基本的にはみんなと同じなんだけど、教室の多くの友達とは見てる場所が違うっていうのかな…見え方が違うような気がしたんだ。
だから、勉強も思うようにできなかったり、人とうまく話せない事もあるのかもしれない。
でもそれって特別な感じがするよね、ヒガンバナのあの人みたいにさ。
それがみんなより劣ってるって事じゃないんじゃないかな。見え方が違うだけでさ」
「ん…」
ちょっとややこしかったかも。
でも何となく、伝わったかな?
 
実はこの日、たまたま出会った保健室の先生と少しお話ししました。
保健室へは不登校中、時々娘と遊びに行ったり、先生も娘の(主に私の)話し相手になってくれていました。
 
約1年前、娘が初めて学校を休んで3日目、試しにやや強引に登校させてみました。
やはり精神的に無理だったようで、登校はしたものの、教室に入って間もなく様子が変だったので、保健室に連れて行ってもらいました。
その時に保健室の先生が娘と色々話した…と、当時は簡単に聞いてはいました。
 
先生はその時の話をあらためて教えてくれました。
娘は泣きながら、先生の問いかけに答えてくれたそうです。
娘は、教室で思うようにいかない、できない自分を責めていたようです。
みんなに何とかついて行こうと、頑張り過ぎていたんだねと。
勉強も友達も。
そして話をした最後に娘が、
『こんな私の話を聞いてくれてありがとうございました』
そう言ったそうです。
 
きっと私には言えない話なんだろうな…
自分から普通学級に行きたいと言って始めた練習期間。
きっと1番愚痴をこぼせなかったのは母である私にかもしれない。
(まあ、さんざん学校行きたくないとはこぼしてましたけどね…て言うか、もっと早くこのエピソードを聞きたかったなあ…だからって、何かがすごく変わっていたわけじゃないかもしれませんけどね…)
 
1年。
1年てキリのいいものなんだなあ…
春夏秋冬、1周しなければ、ひと段落つかない感じ。
これでやっと、おぼろげに何かを把握したような気分にさせる周期。
 
環。
 
1か月
1週間
1日。
 
1時間
1分間。
 
1秒。
 
そんな話を聞いて、尚更、娘に伝えたくなったんです。
もう少し前なら、なんて言ってあげればいいのか、うまくまとまらならない言葉だったかもしれません。(今もうまくまとまりませんが)
 
一生懸命、頑張ってきたじゃない。
(いや、それはよくわかってはいたんだけど、うまく逃げ場を作ってあげられなかった大人の責任だよね)
また元気になれば、そこまで頑張りすぎなくてもいいけど、また頑張れるようになるよ。
色んなことをやってみよう、始めてみようという気持ちになれるよ。
 
だから、見え方が違う自分に誇りを持ってほしいですね…。
自信はまだまだついてこないかもしれないけれど。
いっそあなたが渚ちゃんにシンクロしてみない?
 
 
 
 

春よ来い

月曜日。

オットは月曜日が肝心と言います。
私もそう思います。
娘もそう思っているかもしれません。
 
月曜日の朝、娘を起こします。
さすがに、以前通りの起床時間には起きれませんでしたが、それでも最近にはない早さです。
そして淡々と身支度をして朝食を食べる…登校するために。
11か月振りにこの光景を目にしたのですが、不思議と感動・感激はしないものなんですね。
静かな安心感がある感じです。
時間割りを少し手伝いながら、玄関を出て車で学校へ。
教室に入り、私は娘の後ろで殆ど何も動かず佇んでいます。
給食の時間になったので、それを理由に私だけ1人で帰宅しました。
娘も家で食べると言ってきましたが、
「せっかくだから給食食べなよ、帰りに迎えに来るから」
と言って帰ってきました。
 
帰ってくると、その日もオットは昼食に戻っていて。
娘について2人でゆっくり話しました。
私は病院で医師から言われたこと、その日に娘に「嫌いじゃない?」と聞かれたこと、生活を見直そうと話していた矢先に、オットが学校に毎日行くように言ってくれてとても助かったと話しました。
オットは以前にも同じことを娘に話していたそうです。
1か月くらい前。
…そうだったんだ、言ってくれよそういう事は…
 
「毎日学校に行くつもりで」
私にとって、オットのその言葉は絶妙なナイスタイミングで、オットがそう言ってくれなければ…
つまり私1人では、その方向に大きく舵をきる事はできなかったように思います。
だってすごく大胆な舵きりじゃないですか…?
いや、むしろ機は熟していたのかもしれません。
 
それは娘の再登校が揺るがないというわけではなく、もし娘がまた登校拒否しても動じない私自身の揺るがなさなのです。
以前のように、
「もし行きたくないと言われたら、なんて返せばいいんだろう?」
と言う不安や迷いは不思議となくなっていました。
そこには、私が受けたカウンセリングの効果もあるでしょうし、いつもいつも私に同じ言葉を繰り返した、医師の言葉があるのです。
あのブレなさ、揺るぎなさ。
今なら、娘に対する接し方がイメージできます。
 
そしてもちろん親からのアプローチだけではなく、
学校が、クラスの子ども達が、暖かく迎え続けてくれていた事は言うまでもありません。
また時期的にも、私から担任の先生にバトンを渡しやすかったのです。
そして当の娘が、学校を、クラスメイトを微かながらにもずっと気にかけてくれていたから、今こうして戻ることができたのではないでしょうか。
学校に行く事が、自分にとって何の興味も関心も無くなってしまっていたら、
友達というものに全然関心がなかったら…
また学校に行こうという気持ちにはなれなかったかもしれません。
むしろ最初から、不登校にもならなかったとも言えるでしょうか。
 
3日、とりあえず3日続けて登校しました。
遅刻して、行きたくないなあとこぼしながらも、最後まで教室で過ごし、掃除をして帰ってきます。(掃除をしてくることは私の中でとても重要なことでした)
とても頑張っています。
えらいです。
でもこの頑張りは、あの頃のように、虚しさとは感じないと思います。
例え授業についていけなくても、みんなとワイワイ過ごせなくても。
娘は娘なりに、私と一緒に通ううちに、この教室での、自分の位置を確認できたと思うのです。
そして今は、私の代わりに担任の先生がいる。
何10人もの子ども相手で大変だろうけど、そんな中でもあなたを気にかけてくれている、あなたの先生が。
今なら、あの頃よりもっと声をかけやすくなったでしょう?
 
さて。
娘が学校にいる間、私が1人家で留守番をする…
ずいぶん久しぶりです。
1人ってこんなに自由だったんだ…
何?この解放感。
不登校の期間中、娘と一緒に時間を過ごす間、私はすごく神経を使い、自分を抑圧していたのかもなあ…
もちろんそれは娘のせいではないのです。
あくまでも私の中の問題だと思います。
そして1年振りくらいに外で食べるランチは、とても贅沢なご馳走に思えました。
発達ママ友さん達に、娘のこれまでの事を話せるようになりました。
やっと、ゆっくりと。
 
因みに、医師から言われたことを、担任の先生に愚痴ってしまったのですが。
『お母さん、ものすごく疲れていますよ、昨年ものすごく頑張ったんです。お母さんに休息が必要だったんですよね』
おお…そうかも…わかってくれますか、先生…
『ただ、母親次第っていうのはあると思います』
ぐぬぬぬ…
『人を動かすのは気合なんですよ…やっぱり。
ルールや約束を作ったら、守らせるのは大人の力がないと、上手くいかないですよね。
それをうやむやにしてしまうのは、甘やかしではなく大人の甘えだと思います』
超、激しく同意します…やっぱ先生好きっす…
 

リハビリからのリカバリー

先日、娘と病院に行ってきました。

娘は心理士さんと30分ほど過ごし、私は医師と最近の娘の様子を話します。
今年になって、3学期が始まってからの様子を話したのですが、話すと言っても前回の受診時と比べ、娘に大きな変化もなく、現状維持な感じです…と報告しました。
それを聞いた医師はやれやれ…という感じで、
「そんなんでええんか?」← (そうは言ってません、あくまでも雰囲気で)  とお説教されました。
 

 
昨年の12月、冬休みを意識する頃から、何となく私自身力が入らないというか…
以前のように娘の登校を持続させて、とか、さらに状況を良くしようとか、
そういう気持ちになれず、テンションが下がっていました。
そしてそのまま冬休み。
冬休みが終わり3学期に入っても、とりあえず始業式には意識して登校させたものの、何だろう…何となく…何となくダラダラしていたい気持ち。
力を抜いてゴロゴロうだうだ、娘の登校の事を考えるのが面倒な気持ち。
そして何となくこのまま過ぎて、卒業式の練習が始まり出したら、よっこらしょと腰をあげるくらいでもいいかあ…みたいな。
何となく、今のゆらゆらとした流れを、あえて意図的に (無理して?) 変える気持ちになれないでいたのです。
逆に言えば、流れが来るときは来る、でもまだ今じゃないような…。
その流れを待つような、もしその流れが来たら逃さないようにアンテナだけは張っておこうか…くらいな。
 
そこへきて、医師からのボディパンチと言いますか…(顔面じゃないところがニクイ) 相変わらずブレない御人なのです。
まあ…私としては釘を刺された感じですかね…うう、イケズだわ…
そう、せっかく布団の中でゴロゴロしてたのに、掛け布団を引っ剥がされたような、あの感じ。
わ、わかってらい…
 
そんな訳で、帰ってから娘と話をしてみようかな…と思っていたら、逆に娘から先制攻撃されました。
「お母さん、私のこと嫌いじゃない?」
 
(…後でオットが言うには、「自分の周りを見れるようになったんじゃない?」とのフォロー…そうなのか? 私に対して何か、感じるものがあるんじゃないのか?)
 
娘と色々話をして、その時に今の生活を見直そうか、とも話しました。
 
1、 なるべく朝早起きする
2、 動画は1日2時間にする (15〜17時)
 
いずれも登校を意識してのものです。
今年になって、睡眠はしだいにルーズになり、午前中寝て過ごす事が増えました。
夜はみんなと一緒にテレビを見ていると、どうしても23時になってしまい、その後も眠くないと言って、寝るのは結局0時過ぎになってしまうのです。
それでは登校だけでなく、午前中に予定があっても支障をきたします。
生活リズムが家族とずれると、一緒に行動するのが難しくなります。
後になって思うと、登校すれば全てが解決することなんですよね…。
それでも娘はうんうんと聞いてくれ、了解してくれました。
 

 
翌日は、午後から登校する予定でした。
だいたい、週に1時間か2時間程度の登校です。
たまたま昼食に帰宅したオットが、何の脈絡もなく
「○は毎日学校に行くつもりで生活してみたら?」と突然切り出したのです。
 
おお!?
 
娘は曖昧な返事をしながら聞いていました。
私は前日に娘と話し合ったことを、オットに簡単に伝えました。
オットは月曜日から普通通り学校に行くように話しました。
月曜日さえクリアすればなんとかなると。
このオットの言葉が、私に背中を押してくれました。
「じゃあ、月曜日からやってみようよ」
娘がなんて答えたのか覚えてない…。
 
昨年は…2学期は登校するためのリハビリ期間。
3学期は…3学期は、復旧作業でいいのかもしれない。
無事に登校できるようになるための。
 
その日の午後は、今週に入ってはじめての登校だったので、娘は気が乗らないようでした。
学校に着いて、教室に向かう階段を歩く時も「行きたくないなあ…」と娘が抵抗しました。
私は少し間をおいて、
「久しぶりだから、ちょっと緊張する?」
「うん…」
「大丈夫だよ、教室に入っちゃえばいつも通りだよ」
そう言って気にせず階段を上りました。
娘も渋々ながら私の後をついてきました。
教室のドアを開けるまで娘は抵抗があったようですが、入ってからは何事もなく過ごしました。
帰り道、
「行ってしまえば何でもなかったでしょ?」
「うん」
少しほっとしたようです。
このまま来週、月曜日から、当たり前のように毎日足を運べるといいね。
  

 

 

メドゥーサは鏡を二度見できない

もう1つのブログ『Book of the njght』がとりあえず終了しました。やたーっ。
 
あいうえお順に女性名をタイトルにして、かれこれ3ヶ月…かあ…しみじみ。
 
私は約2年前からツイッターを利用しています。
きっかけは、上の子とともにスマホを購入したので、SNSについて学びたかったからです。
娘に関する情報が欲しいという理由もありました。
それと同時に、個人的な関心事として、セクシュリティな事を語れる場にもしたかったのです。
しかし、ただ1人で呟くのではつまらないし (やはり反応がほしい) 、一方的に質問したり持論を展開するのも違うような気がして…。
男性アカとしてエロい事を呟いていた時期もあったのですが (若気の至りだわ)、何だろう…なかなか思いきり、気持ちよくは呟けませんでした。
今は結構 (かなり?) 、好き勝手にエロい事 (主にジョークのつもりです) を呟いたり、突っ込みを入れさせてもらい、楽しく過ごしています。(中には不快な方もいらっしゃるだろうと思いつつ、すみません…)
 
若い頃、性教育に関心があった時期があり、勉強もしました。
今も、性に関する話題には興味がありますが、勉強はしてません。
それでも、ただふざけているだけじゃなくて、どこかで語れる場所があるといいなと思っていました。
娘の不登校に絡んで、自分が、カウンセリングを受ける機会を持つ事ができました。
その途中でふと、自分の体験や性に対する考え方などを、ブログで書いてみようかと思い浮かびました。
しかし、あまりストレートなのもなあ…と躊躇しているなか、ストーリーなら有りかな?と思いつき、書き始めてみる事にしました。
全てが自分の体験ではもちろんありません。
しかし、何かしらのエッセンスは振りかけてあると思います。
自分的には、たった一言が言いたくて、ひとつのテーマを伝えたくて、膨らまし、ペタペタとコーティングして創り上げた感じです。
難しいですが、それなりに楽しい作業でした。
 
セックス、オナニー、フェラチオ、クンニリングス…わりとストレートな単語を敢えて使うようにしていましたね…。
私が10代の頃は、周りで「セックス」と口にする大人は殆どいなく「アレ」だの「ハメる」など、濁したり俗語を使っていました。
若者には「エッチする」という言い方が流行っていました。
それはセックスという単語だけでなく、男性器や女性器、性行為についても同様です。
そんな言い方が、かえって卑猥に聞こえるのが嫌で、あえて正式名称を明記するようにしました。(場合により表現を比喩してはいますが、できるだけストレートな言葉を使って)
 
そうは言いながら、私自身、普段の生活の中で、性的な言葉を口にする機会なんて殆どありません。
極たまに、リアル世界で、ママさん同士のエロトーク (めっ…たにありませんよ) で口にすると苦笑されますね…。
皆さんそういう話題は好きではないようです。
冗談めいて話すならまだ聞いてくれますが、マジな話題は苦手ぽい。
その分野の言葉はやはりその分野でしか堂々と羽根を伸ばせないものなのかなあ…。
まだまだタブー感の強い世界なのかもしれませんね。(田舎だから?)
 
それらの言葉を口にするのが、自分自身も含めて恥ずかしい、いやらしいと思わなくてもすむように。
もちろん言葉を使う時は、TPOを配慮すべきですが…。(ツイッターでは、時々不快にさせているかもしれず申し訳ないです)
「ご飯がおいしいね」「今日はぐっすり眠れたね」くらいの感覚で、「セックスが気持ちいい」と言えたら、語り合えたらいいなと思っています。
「セックスは気持ちがいいもの」という発想や、そもそも「セックスありき」が当たり前という考え方でさえ、多数派意見に過ぎないのだと、ネットで知りました。
性に関しては、一人ひとりの、全くの私的な世界であるので、「こうあるもの」「こうすべき」はなく、自分がどう考えどう捉えるか、そして犯罪でなければ、どんな方法や手段を取ったとしても、構わないわけで。
だから押しつけにならない事を、意識したいのですが。
 
「そうとは思えない」「自分はそうじゃない」方達が、例え1人でも存在する…という事実を受け止めつつも、やはり「ご飯はおいしく食べられるといいな」と願うのです。
ひどい偏食でもいい、水しか飲めないかもしれない。
たった一口がやっとかもしれないけれど。
そして、おいしく食べられない原因を取り除けたら、もしかしたら食べられるようになるのかな? なんて考えたりします。
余計なお世話なんでしょうね。
 
自分の中では、いかに性を肯定的に受け入れられるかの闘いではあったのかもしれません。
受け入れていたつもりではあるのですが、自分にも知らされていない無意識の自分が、まだまだ潜んでいるのかもしれないなあと、奥が深い世界です。
どう表現しようが、行動しようが、とりあえず犯罪でなければ自由であってほしい。
 
思春期真っ盛りの頃、同級生に放送禁止用語をバリバリ発言する男子がいました。
クラスメイトが集まる教室の中で堂々と「セックス」「オマンコ」と言い放つ。
ツッパリ君の彼は正しかったのかもしれません。(それでも聞いてる側は不快でしたが)
本来なら口にするのを憚られる単語を、わざと話題にして大声で喋る。
今思うと、彼なりの大人への反抗だったのではないでしょうか。
彼はもうこの世にはいない人なのだけど。
 
もし、自分の子どもにブログを見せる機会があったら、それはそれで楽しみかもしれません。
いつか我が子と、1人の大人対大人として性を語り合える事…それはある意味私の理想であり、夢であります。
まあ、強制するものではないので、向こうから話しかけてくれたら、いくらでも相手になりたい位の感じですね。
まあとりあえず、18歳になったら考えよう。
 
「これ、ネットで見かけたんだけどさ、よかったら読んでみない? youtumugiさんて人が書いたらしいよ」
「知ってる。お母さんでしょ、それ」
…一瞬で石になりそうだな…。

愛しい教室

3学期が始まりました。

始業式、何とか間に合いはしたものの、大勢のいる体育館の中へは入る事ができませんでした。

廊下で扉越しに中の様子をうかがっていると、「終わります」の声が聞こえたので、一足先に教室へ。

教室で待っていると、クラスの子達が次々と戻ってきて、娘と私に「おはようございます」「あけましておめでとう」「来てたんだ〜」と声をかけてくれます。(殆ど男子)
先生のお話も、自由研究の発表も、クラスの一員として、席に座って見て、聞いている娘。(一応、それなりには…)
この空間にいるつまらなそうな娘の表情を見つめながら、
娘はこの世界の傍観者でいいのかもな…と思ったりしていました。
時折、気が向いたら眺めていられる風景。
その眺めを見ても、強い感情の動きはないのかもしれない。
しかしここにいるのは、さほど苦ではない。
体調や機嫌の悪い時はいたくないけど、気分のいい日なら、誰かのおとぼけに笑うこともできる…くらいの。
 
娘にとってこの場所は、どちらかと言うと居心地の悪い場所なのでしょう。
でも、忌み嫌っていたわけではない。
娘はこの空間が怖かったのではないか?
不安で落ち着かなかったのではないか?
だからこの世界は…なんていちゃもんをつけていたのでは?
 
でも私も一緒に付き添い、再び足を踏み入れてみると、思ったほど怖くはないように見えます。
しかし、居心地が良いわけでは、やはりないのでしょう。
自分から進んで入り込む気にはなれないけれど、私が入りたいと言えばつきあってくれる。
居心地は良くはないけど悪くもない…時もある。
そこに座って眺めている分には構わない。
消しゴムが落ちてきたら拾うくらいの事はする。
だけどあれを取りに来て、と言われたら躊躇するかもしれない。
一緒に…とか、みんなで…とかは苦手で困る。
でも、自分のペースで、周りを気にしなくていいと言われれば、
関係は1対1だよと言われれば、かなりつき合いやすい。
みたいな。
 
そんなあれこれに思いを巡らせた母でしたが、その後、1度だけ登校したものの、なかなか足が運びません。
冬はね…大人も外出が億劫になります。
ましてや行きたくない場所なら、さらに気が重いでしょう。
私も憂うつです…。
寒いとエネルギーが節電されて、ターボが効きにくいんですよね…。
冬は慌てない、急がない季節です。(滑って転ぶから気をつけましょう)
早く春にならないかなあ…
春が来たからって、何かがすごく変わるわけじゃないでしょうけどね。
今の最終目標は卒業式だから、もう少しまったりしていようか…(いいのか?)
 

懺悔の値打ちはあるかもしれない

カウンセリングを受ける中、私のこれまでの記憶や経験が、単に過去のものではないと気づいた時。

それが家族、特に子ども達に、共鳴とも言えるような強い影響を与えていると知った時、やはりぞっとするものです。
 
その頃から、もう1つのブログとして『Book of the njght 』を書き始めました。
Book of the njght …
「夜の帳」が下りる~ 夜になって暗くなる様を、垂れ絹が下りたことにたとえたもの。
この言葉が美しく、この標題を気に入っています。どちらのブログも私にとっては、苦しくて愛しい存在です。
 
もともと、セクシャリティに関することに興味や関心があります。その理由は、自分の成長の過程で得た経験が大きいとは思うのですが。
何故自分が、その分野にそれ程強く惹かれてしまうのか、10代の頃から不思議でした。
それは、その中に自分が探し求めているものがあるのではないか…という不確かな直感。または無意識の中にある、過去の記憶がそうさせるのかもしれません。
 
とは言え、過去の自分に何があったのかは殆どの事は覚えています。色褪せて、形も原型を留めていないけれど、自分の内面の引き出しに仕舞ってあります。
それは隕石ほど巨大なダメージではないでしょうが、大粒から小粒大の、大小様々な形状の、性にまつわる記憶なのです。
 
今でも、それは取るに足らない、みんな口にしないだけで、世間ではありがちな事ではないかと思う自分がいます。
実際、誰かから酷い虐待や性暴力を受けたわけではないのです。
( 後になって考えると、デートレイプは受けていたのだと思います)
 敢えて言うなら、それは高温やけどではなく、低温やけどのようなものかもしれません。見た目には皮膚のダメージがさほどなく、中で静かに燻っているような。
 
私が生まれ育った環境は、性に対して良く言えばおおらかであり、悪く言えばルーズと言えるでしょうか。
 今はもう朧げではあるけれど、注意深く意識すれば次第に蘇る、昔、何度も思い出していた記憶が、いくつかあります。
 
 
中学生の頃、父が私に水着を買ってくれました。
それは涼しげな色の、シンプルで垢抜けたデザインで、私も大変気に入りました。
父は私に着替えてくるように言いました。目の前で水着姿をお披露目しろと言うのです。
もしも私がもう少し幼くて…そうでないにしても、例えば家族で海水浴に行き、その姿を見られるのであれば、何の躊躇いもなかったと思います。
私は恥ずかしく、だからもじもじと抵抗したつもりです。
しかし父は、その水着を買ってきたのは自分なのだから、水着姿を見る権利がある。そしてお前には見せる義務があると言うのです。
そう言われて、それもそうかな…と思い直し、父の前でお披露目しました。父は満足気でした。
その事が、親経由で流れてゆき、女友達にからかわれたのです。
 
そんなの信じられない、父親にそんな姿を見せるなんて。友達は父よりも、私に対して嘲笑的でした。
その時、娘にそのように要求する父親が、他の家庭ではあり得ないのだと感じました。
仮にあり得たとしても、拒否をすればよい話で、父親に抵抗もせずに、その姿を見せる必要はないのだと。
しかしその時の私には、父に対して最後まで抵抗するという事を思いつきませんでしたし、思いついたとして、実際そうできたかは難しいように思います。
 
父にまつわる石ころは、一番多く様々な種類があるのですが、とりあえず一場面として。
 
兄は小学校低学年の頃、近所の男の子と私にキスをしろと強要しました。
当時私にとって兄は、父や祖父達と同じく男性において…でしょうか、命令をされれば従わなければならない存在でした。
もちろん、拒否的な態度や言葉を使って多少の抵抗は示しますが、結果的に従わざるを得ないのだと諦めてしまいます。
 それは、嫌だと言って逃げ切れるものではない家族の関係に思えます。
兄はただ口をつけただけではなく、唾液を飲み合うように命じました。相手の子の苦い唾液の味を今も思い出せます。
しかしそんな事も、昔は縦社会であった子どもの世界では、時々見られる光景だったのではないかと思います。さほど異常と言える事でもないような気がします。
命令した方は忘れているだけで、された方は言わないだけなのです。 
 
自分が望まないことを強要された時、逃げようと思えば逃げても良く、誰かに助けを求めても良いのだと思いつきませんでした。
そして結果的に、はっきりと拒絶しなければ同意した事になるという自分の立ち位置。
 
 
小学校中学年の頃、虫垂炎で1週間ほど入院しました。
もう2,3日で退院できるという頃、私は退屈で院内を散歩していました。
日中はもう、びっしり付き添われる事もなく、母か姉は出かけていたようです。
 
廊下に、車椅子に乗った初老の男性がいました。そのおじさんは、私に車椅子に乗せてあげると誘いかけました。私は嬉しくてうなづきましたが、おじさんが自分の太股の上に乗りなさいと言うので、
「痛くないかな?」と気になり、遠慮がちに腰掛けました。するとおじさんは私の股間を力強く抱え込みました。
その時は、私が滑り落ちないようにしっかり支えてくれているのだと思いました。
 
この記憶は、家族の記憶とは違い、たまにふと思い出しては、すぐに忘れてしまう淡い記憶でした。
本当であれば、とうに忘れていたかもしれませんが、車椅子に乗せてもらえたという気持ちが、全く忘れ去るには新鮮だったのかもしれません。
しかし、そうやって思い出す毎に、
「あれは何の意味があったのか?」と疑問に思うのです。
おじさんは優しい笑みを浮かべていました。
何故おじさんは私を車椅子に乗せてくれたのか、何故そんなに思い切り、両手を股間に当てなければならないのか…。
何の思惑もなく、私の思い過ごしなのかもしれません。
しかし私が大きくなるにつれ、その記憶が色濃くなるのです。
 
 
私が小学校に入学して、登下校を一緒にする友達が2人いました。
大勢の児童が歩いて行く道路とは違い、私達が帰る方向は、まばらな数の子ども達でした。
給食を食べて下校するのは、1年生の私達くらいしかいません。私はその2人の男の子達とよく帰りました。
 
いつも道草をしながら、ゆっくり歩くので時間がかかります。ある日、私は途中で小水したくなりました。
知らない家にトイレを借りることもできず、やむを得ず道路の脇で済ませました。
その事1つにしても、昔の田舎の風景ではありがちなものでした。その風景を見て育った私には、さほど抵抗のない行為でした。
さすがに車の行き交う場所では憚れるので、少し離れた草原の、車から見えない場所でしました。もちろん、男子達からも離れて。
 
しかしその男子達は興味深げに覗きに来たのでした。私はまだ途中だったので動けませんでした。
2人はニヤニヤしながら、コソコソと話していました。
私はちょっと嫌だな、と思いつつも、さほど気にせず、その後もいつも通り彼らと帰って行きました。
 
それ以来、彼らに性器を見せろとか、触らせろとか言われたような記憶があります。
最初はからかうようにだったのが、そのうち軽い脅しのような態度を取ります。
その態度が冗談半分だとわかっていても(怖さは感じませんでした)、そう言われる事は不快で、気の重い事でした。
かと言って、帰り道が一緒で帰る時間も同じ彼らと、顔を合わさずに済む方法がわかりませんでした。(幸いクラスは別でしたが)
その話題になると、避けるように足早に1人、先に歩いて帰りました。彼らは面白がって追いかけてきます。
 
そしてとうとう、頼むからと、一度だけだからとお願いされ、一度だけ、タイツの上から性器の部分を触らせてしまいました。
触られたのではなく、触らせたのです。
彼らは嬉しそうに満足そうに笑っていました。
 
しかしその後も、また触らせてほしい、触らせろと、帰り道にしつこく言われました。
それが幼い私なりに苦痛だったのでしょう。
それまで、その事を家族にこぼした事はありませんでした。
大した事じゃないと思っていたからです。ほんの子ども同士の遊びの、度が過ぎた感じの…。
 
それでもある日、ひょんな事で姉にその事を愚痴ってしまいました。しつこくされて困ってるんだよねーと。心に思っているよりも軽い調子で言ったのを憶えています。
すると姉の表情が曇り、すぐに母親に伝えたのではないでしょうか。そして母から父へ。
父は私を呼び寄せました。
「その話は本当なのか?」私は真面目な顔をした父を見て、いつもとガラリと変わってしまったその場の空気を感じました。
父はすぐに電話しました、学校とその子達の家に。
そして父は「先生にもあっちの家にもちゃんと言っておいたから、もう大丈夫だぞ」と私に言いました。
私はとにかく、これでしつこく言われずに済むと思うとホッとしました。
 
翌日の帰り道、ばったり彼らと出くわしました。彼らは怒っていました。「お前のせいで先生に殴られたんだからな…」と。
その時の私は、彼らを怖いとは思いませんでした。自分がもっと毅然とした態度でいないとダメなんだ。これからは笑ったりないで、つんとしていないと。
 
それから暫くは、彼らも私もお互いに近付きませんでしたし、話をする事もありませんでした。
しかし田舎ゆえ、その後も同じ学校の同級生として、中学を卒業するまで、嫌でも顔を合わさなければなりませんでした。高校生になると顔を合わせる機会は激減ましたが、それでも全く会わずに済むわけではありません。
彼らと顔を合わせる度に、さっきまで忘れていた記憶が蘇ります。
顔を合わせなくても、折に触れ思い出されてしまう時もあります。
もう慣れるしかない、と思いました。顔を合わせても平常心でいられる訓練、記憶が蘇ることの習慣にも。
 
時には教室の中で、何もなかったように皆と同じに接しなければならない。
友達つながりの友達として交流をしなければならない。
時にはほかの友達に混ざって、私の部屋の中に案内しなければならない。
 
その事が起きて1年も経たない頃のこと、学校のトイレで噂話が聞こえます。
「Aちゃん (私の事ではないです) は男子に体を触られて喜んでたんだってー」
噂をしていたのは男子だったか女子だったか。トイレの中で私は表情がこわばります。同じ事を自分もされたのに、何故その子だけがそんな風に言われなけらばならない?
自分だって言われてもおかしくない筈なのに、何もなかったように生活している自分は何なのか。
 
 
これらの記憶は、和らぐ事のない記憶です。
誰かを許すとか、許さないとか、そう意識するのも煩わしい。
かといってその事を忘れようとするのは、その記憶の存在を、かえって大きいものにしてしまう。
自分の背中にずっと張り付いている、血を吸うダニのようなものです。取る事も殺すこともできないけれど、触れずにいればどんどん大きくなるわけでもない。うまくやればその存在も薄められる。
そう、触れずにいれば。
 
 家族で共有している記憶は、自分一人しか知らない記憶よりも厄介です。
せっかく薄れかけていた記憶を、家族がわざわざ蒸し返すことがあるからです。
 
極たまにですが、父は思い出したように言います。
「あんな事もあったよなあ…あいつらは今どうしている?」と。
父の無神経な問いかけに私は笑いながら、まるであんな事は、
「遠い昔の、子供の頃の、今になって思えば取るに足らない、笑って話せる事」として、父と談笑します。
そんな自分が、何よりも嫌で嫌でたまりませんでした。
 
笑いながら、( 自分はなぜ笑っているのか?)と自問しつつ、この空気を冷たいものには変えたくないのです。その記憶が、私にとってどれだけ重いのかを、父に悟られたくない。そして、どこかで父に気を遣う自分がいる。
 話を終えその場を離れた後に、じわじわと自分を包み込む嫌悪の増殖。
 
そういった性の記憶は、 多くは家庭の中の記憶であったりします。
性に対する身だしなみのような躾が、充分にされなかったように思います。
そのくせ、家庭の中で大っぴらな性の会話がなされたりする。
大人に囃し立てられた、意味もよくわからない性的な仕草を、喜ばれる事が嬉しくて、幼い自分が何度も披露する。そして成長すれば、その事を懐かしい思い出話として何度も語られ、あたかも子どもが進んでそれをしてきたかのように、あちら側の仲間に入れられてしまう。
 
私は、頼まれ事をうまく断れない所があります。それが自分にとって不快な事であっても、強く押されればそうせざるを得ないと追い込まれ、諦めてしまいます。
また、自分のした言動で誰かが喜ぶのを見ると、嬉しくてさらに何かしようと思います。
 
これは幼い頃の、家庭の中での私の役割だったのではないかと思います。
 
成長するにつれ、それらの記憶がしだいに、より不快なものへと変化していきます 。思春期を迎えた私は、自分が汚れているように感じました。それは過去の出来事そのものよりも、それを招いてしまった、許してしまった自分が、許せないのです。
 
成長していく私は、中性的だった子どもから女性的な心身に変化する事に戸惑いました。あきらめがつくまで、女性であることに嫌悪感を抱いていました。
自分に自信がなく、自分の意思を通すことができない。強く言われれば逆らえず諦めてしまう。
 
その思いをさらに強めたのは、飼い犬の死であったようです。
 
それから私の恋愛観は歪曲したように思います。
 
母は高校生の私に、もしレイプされたら、抵抗してはいけない、暴行を受けても命を守りなさい、と話しました。
(そんな母も似たような経験があるのだろうか? 私は娘にはなんと言えるだろうか?)
私は自分が誰かに襲われることを想像してみます。
私ならどうするだろう。
笑いながら了解し、隙を狙って相手を刺してやろうか。
例え殺されなくても、激しく抵抗する事が全くの無駄であった時、死を選ぶほうが救われるように思うのは、許されてもいいような気がします。自らの死を選ぶのなら、相手に死を望むのも同じことではないか?
無駄な抵抗とわかっていても、あきらめてはいけないと、誰も教えてはくれなかった。
万が一の抜け道があるかもしれないと、誰も一緒に考えてはくれなかった。
また自分自身も、誰かに助けを求める術を知らず、求めることさえ選択肢にはなかった。
 
誰かを思いきり好きになれない。
誰かに大切にされる価値がない。
誰かが私を大切にしようとしても、私はそれに応えられない、むしろ、何かの罰を受けなければならない。
 
そして知らず知らず、私を大切にしない人達の中に、自分の身を置くのです。
 自分が堕ちていくのを感じます。現実に戻りたくないほどに。
 
人から見れば、何故私が意味のないように思える行動を取るのか、わざわざ自分を傷つけに向かうのか、わからないでしょう。
時には悪ふざけと受け取られたかもしれない。
しかし私は真剣だったのです。いつだって大真面目に生きていたつもりです。 
ただただ探し物をしていたのです、答えはどこにあるのかと。
 
 
汚れているのは、自分ではなかった。
汚れているのはあちら側の人達であった。
とは言え、その人達全てが悪者で、自分の事しか考えない、冷たい人というわけではありません。むしろ社会では人当たりも良く、印象の良い人達です。
 
しかしあの人達は、お前も望んだ事だろう?と、俺達の仲間だろう?と、私に共犯を迫るのです。私は疑う余地もなく、そうなんだと思いその記憶を封印しました。
 
 
今の夫は、私から好きになりに行かなければならない人だと感じました。
何故なら、彼もまた自分から近づいてはこない人だからです。それなりにアクションはしてくれますが、基本的には受け身の人です。
 
心理士さん曰く、惹かれ合う2人というのは、お互いに、自分の足りない部分を、相手と補い合うために惹かれる。
そして、一番大切な価値観が同じだからこそ惹かれ合うのだと。(まるで惚気のようだ…)
 
そんな夫でさえ、もし娘に何かをすれば、私はためらう事なく娘を守るつもりです。
そう、あちら側の人達が私にしてきたような何か。
それだけは揺るがないのです。
 
もちろん夫であれ、息子達であれ、世の男性という性に対しての、私の覚悟であり決意です。
 
娘を守りたいーー障害のある娘を育てるうちに、その思いがさらに強められたのかもしれません。
もちろん息子達も、加害だけでなく被害を受ける立場にもなり得る。
娘と共に、息子達にも言って聞かせねばならない性教育です。
 
 
 『スペクトラムしい日々』と『Book of the night 』は、私の中で二重螺旋のようにシンクロしています。
 自分の言葉を置くこの2つの場所で、自分のバランスを取り合っていたと思います。
 
娘のことは、発達に関わることであると共に、私の中にある、過去の自分との関わりでした。
 
自分の過去の出来事は、もう過ぎ去った事として終止符を打ち、生活していました。
しかし、娘と共に窮地に追い込まれるうち、ゆっくりとその闇に自ら近づいていたのでしょう。
娘を、家族を道連れにして。
そして再び、その引き出しを開けざるを得なかった。
しかしカウンセリングによって、それ以前と以後の心の在り様は変われたと思います。
自分なりに引き出しの整理ができ、中のものを畳み直し、もう一度引き出しに収められたと思います。とりあえず、当面は。
 
自分のこれらの過去が、今も苦痛で辛い記憶と言えるのかはよくわかりません。かなり時間が経過しましたし、思い出す暇もなくなりました。
 
少なくとも私は私以上に、重く、動かしようのない記憶を抱えている人達を、見て、聞いて、読んで知っています。そして私の知らない、膨大な数の人々を思います。
そして、自分はそれほど不幸ではないと、自分を甘やかさないよう心がけていました。
 
だから私には、「これらの事が苦痛だった、長年重くのしかかっていた、それがその後の自分にも大きく影響した…」
そう認めて良いのだと、許して良いと思えるのに時間が要りました。
しかし本当は「誰が誰よりどのくらい」というものではないのです。それはわかっているつもりです。
 
それでも今でさえ「そんな大げさな事として受け止めてもいいのだろうか?」と思う自分がいます。
それは、自分を労っても良いのだろうか?という戸惑いです。
この癖はなかなか治せないものなのかもしれません。
 
何故、記憶の告白をしようと思うのか…
 この場所では、色々な方達のお話を目にする事ができます。心温まるお話や、悲しみを共有させてもらうようなお話も。
辛いお話の中に、勇気をもらう事も多くあります。
 
何か…言葉にする事で何か、自分を確認できるもの…
自分は何者なのか?
自分が探してきたものは何だったのか? その答えは? それは正解なのか?
 
思いを言葉にすることは痛みを伴います。形のないものを、形にすることのエネルギー。文字よりも会話にすることのほうが、尚更エネルギーも勇気も必要とします。
 
 また、このような告白は、自分の苦痛の一部を相手に移動させてしまう事があります。それはとても心苦しい事です。しかし傷つけてしまう覚悟で、敢えてやらなければならない場合もある、と信じます。誰かを傷つけることは、自分を傷つける覚悟でもあります。
 
私にはまだ、自分の記憶を口から語り出す事は難しい。
カウンセリングでも、抽象的な表現や間接的な1つ2つの出来事を、やっと伝え始めたばかりです。
もしもまた、カウンセリングをする機会があれば…これらの事を口で語る必要に迫られたら、できるかもしれません。
でも今は、文字にするのが精一杯です。 そして、それを置いておく場所を見つけられた事が、私には救いなのです。
 
過去の自分がしてきたように、たった1人、机に向かって書きなぐる日記だけでは、この思いを消化できない。
あの人達にぶつける事は無理だとしても(言うつもりにもなれませんが)、ここでなら引き出しを整理してもいいかもしれない。過去の自分が多少なりとも報われるかもしれない。
 
私はもう、私の記憶に、口を閉ざし続ける年齢ではないような気がします。
自分には自分の事しか語れない。
自分の事でしか、何かを表現できはしない。
私の記憶は、たった1人の、たった1つの記憶です。(以前読んだブログの方の言葉と重なります)
だから私が語っていいのだと思います。
 
 これは今の私から過去の私への懺悔なのです。
 
過去の自分がその時の自分を許さなければ、今の私が安心して娘を、家族を守れないようにも思うのです。
あの時吐き出せなかった思いに、今の私が耳を傾けなければ、過去の私は癒えることができない。今の私が代弁することで、過去の自分を救うことができるのではないか。
 今の私は、過去の私をすでに許しています。
同じように、30歳の、20歳の、高校生の、中学生の…私が、過去の自分自身を許せるように…語らせてほしいのです。
 
ここを通り過ぎる人は、そのまま通り過ぎようと、走り去ろうと自由です。だから私が、ごにょごにょと呪文のように唱えることを見過ごしてください。
 
だから、ここまで読んでくれた方、どうもありがとう、感謝します。愛してます。
 
感謝を込めて、たくさんのキスを心に送ります。