スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

すばらしい選択 〜 これでいいのだ

娘は4年生になってから、少しずつ悩みが増えてきて。
それは周りの友だちとのぎこちなさだったり、支援学級の中にいる自分への違和感だったり。
それはつまり、自分の周りにも少しずつ目を向けられるようになったという事。
そして彼女なりに出した結論が普通学級へ移ることだった。
娘がもう少し勉強が好きだったら、
もう少し友だちとの雰囲気を楽しめたら、
もしかしたら乗り切れたかもしれない。
でもそれほどの力はなかった。クタクタになって疲れきってしまった。同じく私も。
周りが思うほど彼女は、勉強が好きでもなかったし友だちとも関われなかった。
自分の大好きな独特の世界を持っていた。
娘が普通学級に移りたいと言った時、支援学級に残るべきか、普通学級へ移籍するべきか…。
本来、支援学級で過ごしてほしい私はしばらく悩んだ。決断してからは迷いはなかったが、気持ちを維持するのは努力が要った。
そして不登校になってから今まで、色々な反省と自問が何度も繰り返される。
どちらにしてもうまくいかないのなら、後のフォローを考えるなら、支援学級に残すべきだったのかな…。
何度もそれを思い悔やみそうになるのだが、やはりこれで良かったんだの結論にはなる。
なぜなら、娘が自分で一生懸命考えて出した答えだから。
そして不登校という答えも自ずから出したのである。
選択をするというエネルギー。
例えそれがマイナスに思える選択だったとしても、
すばらしい彼女の選択であったのだ。

心理士さんはいずれにしても、娘はいつか不登校になってしまっただろうと言ってくれた。
気休めだとしても、私には幾分救われる言葉であった。
またそれ程に娘の特性が簡単なものではなく、躓いてしまったこの状態を、長い時間をかけて支えていく覚悟がいるのだな、と感じた。

また心理士さんは、娘が今、幼少期に取りこぼした物を拾っている、
幼い頃のやり直しをしているのだと言った。
だから母が寄り添って、同じ目線で見たり聞いたり、顔を見合わせておしゃべりをし、たわいない事で笑い合うのが大切なのだと。
それをちょっとずつ、積み重ねていけば何かが見えてくるような気がする。

娘が今、少しずつ回復しようとしている。毎日の中では目に見えないけれども、長い期間で見れば形となって現れるのであろう。
その形が、それなりの意味を持つモノとなった時に娘は、
今度はどんな選択をしてくれるのだろう。
それを楽しみに今は日々を過ごそう。
あなたの成長を信じて、夢見て。

みかんの籠が置いてあるコタツに入って、温かいほうじ茶を飲みたい。

金糸銀糸でタペストリーを織ろう

心理士さんは水先案内人である。
能動的に話をしているように見える私に、気づかれないように舵を取っている。
深層心理の海の波を凌ぎながら、櫂を使って舟を進ませる船頭なのだ。
こっち、こっちだよ...
そうして灯台の仄かな灯りをめざす。

延々とタペストリーを織り続けている。
細くたおやかな絹糸で、金糸銀糸で美しく装飾をして。
そこに織り込んでいこう、心のかけらを。
誰かこの手作業を補佐してくれる人がいるといい。
例えばその織り目にできた歪みを、うまく修繕してくれるような。
糸が足りなくなったら、買いに走ってくれるような。
ひとかけらでもいいのだ。
思い出すたびに糸と紡ぎ、タペストリーに織り維げよう。



世界の中心でエロと叫べばいい

何かを確かめたかった
何かを探していた
それは自分探しと言われたりもする

命とは何か、を確かめたかったのだろうか
命はどこにあるのか、を探していたのだろうか
自分の命やら他人の命やら特別な誰かの命やら

命が位置としてではなく意味として、どこからやって来てどこに還ってゆくのか
つまり、なぜ何のために命を宿し、命が絶えるのか
そのうえで今生きているこの世界は、空間は何を意味するのか
その理由が知りたくて探し続けていたのだろうか

死のことを考えるのはもうウンザリだ
できるなら生きることを考えたい、目を向けたい

生も死も同等のものではあるけれど

生のエネルギーを体いっぱいに浴びて吸収したい
そしてエネルギー満タンにして、元気に、愛する人達を照らす存在でいたい
だからエロスに惹かれるのかなあ…
ほら、性は生そのものだから
 
性は命の源である
だから世界の中心でエロと叫べばいいんだ

ほらね

巡って、環って、世界はうまくおさまっている

生の扉を開ける呪文を唱える

呪文を唱えたら、目の前にあった大きな岩がゴゴゴゴゴゴ……という地響きと共に動き始めた。
岩の向こうに隠れていたものが姿を見せる。

それは私が生きるための源としているもの。

呪文は何と唱えたのだろうか?




自死についての考え方。

同情もせず無情でいたいとも思わない。
許したいわけではないし許さないわけでもない。

ただ認めない。

絶対、ではない。それほど強い意志ではないと思う。
ただほかの誰かが、
「かわいそうに」「気持ちがわかる」「仕方のないこと」と受け入れる姿勢を示したとしても、
私は認めない、まる、なのだ。

確かにやむを得ない事もあるだろう。
自分の意志と言いながらも、突発的に衝動的に起きてしまう事もある。
誰かを苦しめたくてそうしたわけじゃなくても、
私は認めない立場でいたいのだ。

兄2には、私のその考えを伝えてみてはいる。

死んじゃだめだ、そう叫んでいてくれたのはポチだったのかな。
自分で死を選ぶことは、ポチへの裏切りになってしまうから。




ある時のカウンセリングで、私が生まれてからこれまでの出来事を話した時に、
心理士さんはこう言いました。

あなたが体を張って、悪い流れを塞き止めているのだと。

代々から引き継がれてきた忌まわしい慣習に、あなたは堰となって断ち切ろうとした。その慣習から娘の身を全力で守った。

だとしたら自分のこれまでしてきた事は、自分を傷つけはしたかもしれないが、意味あるものだったのかもしれないと思う。




その当時は、何のために自分がそうしているのかもわからないまま、何かに突き動かされるように、水の流れに逆らいながら泳いでいたと思う。
どこかの岸辺に辿り着きたくて。

今思うとその頃の私は、自分が価値のないもののように思えて、それを証明していたようにも取れる。
( ほらね、ほらね、)  と。

もしくは確認するためだったのか?
( 本当にそうなの? 本当に私は価値のない人間なの? )  と。

そしてその答えを探し始める。
( その答えはどこにあるの?  どうすれば見つかるの?
どれくらいの事をすれば、目に見えるようになるの? )

確かに自分に傷をつけながらも、何かを確認する事ができたのではないか。

探し物が見つかったのではないか。

辿り着くべき岸辺に、川の流れから這い上がることができたのではないか。

それは糸口の見つからない未来の話で、結果的には、娘や兄達を守ろうとする姿勢にはなり得たのかもしれないが、それを知る由もなくそうしてきたのだろう。

しかしポチの事を思い出した途端、それまで私の中で鬱々とさせていた自分の人生の出来事が、霞が晴れるようにすうっと軽くなり、大小様々の黒い闇が一瞬で消し去られた感覚があった。


あれらの出来事は、私には取るに足らない事だったよね?  ポチの命に比べたら。


確かに、後にも先にもあれほど強く誰かの命を切望した事はなかった。

ポチの命と同時にたくさんの何かが喪失したんだと思う。私の内側で。

その命を失った時、後にも先にもそれ以上の喪失感は味わえなかったし、その時すでに感じないように封印していたのかもしれない。

そして何事もなかったように生きていたつもりだった。

それが娘の障がいや不登校に、だんだんと追い込まれていき、あの時の空間に閉じ込められてしまったのか。


呪文の言葉は[生きろ ] だったかもしれない。

格納庫に終いに行こうか

その記憶は長い間忘れ去られていて。

また、思い出したとしてもこんなに感情が溢れはしなかった。

 

私にとってポチの死は、ただの死でしかない。
死というものの、それ以上も以下でもない。
何を思おうと死は訪れる。
何を願おうと死は通り過ぎる。
何事もなかったように。
そして何事もないのだ、そのイノチがここに無いという事以外は。
 
 
 
 
昔、自分でも覚えていないくらい幼い頃、父親が畑に穴を掘っていたそうだ。
父は傍にいた猫を指差して、私に「その猫を埋めるからこの穴に入れなさい」とからかったそうだ。
 
何故その通りにしようとして、猫を抱きかかえたのかわからない。
父の言う通りにしたまでかもしれないし、その行為が何を意味するのかがピンとこなかったのかもしれない。
 
その時、兄が必死に私を呼ぶ。
 
私の名前を何度も呼び、
(やめろ、よせ)
と目で合図を送っていたかもしれない。
 
とにかく覚えていないのだ。
 
結局、その事は父が子ども達に悪ふざけをした、という笑い話となるのだが。
 
父は私の躊躇ない行動や、対して兄が慌てふためく様子を交互に説明し、楽しげであった。
兄は兄で、自分が父の思惑に引っかかった事への照れ隠しなのか、私に冷たい奴だと言い張る。
 
私はそのように子どもの心を試したり、からかう大人に嫌悪感を抱く。
また、自分には非がないと弁解しているようにしか見えない兄が疎ましい。
 
もちろん兄に非はないのだ。
 
しかし私にだって非はないはず。
 
それが何故、幼い頃の思い出話で食卓を彩るのか。
 
 
 
 
大人になって車を運転したばかりの頃、冬道のカーブで突然何かにぶつかった。
ガツン! と聞こえた。硬い雪氷の塊にでもぶつかったようだった。
そのまま無意識に車を走らせていたのだが、ふと脳裏に、ぶつかる直前に黒い影が動いてくる映像がよぎる。
 
雪氷は動いてはやって来ない。
 
もしかして…違うよね…
 
とても嫌な予感が充満して、車をUターンさせた。
 
確かこの辺り…車を停めて、暗闇のなか車道に目を凝らした。
塊を見つけた。小型犬だった。
いや、もうすでに気づいていた。あのガツンという音は、生き物がぶつかってきた音だと。
 
 
認めたくなかったのだ。
 
 
何も考えなかった。まず最初にしようと思った事は、その犬を抱えて歩道の上に寝かせる事だった。
 
犬は温かかった。暗闇で見えないが液体の感触はない。
 
ただ、全く動かなかった。
 
もしかしたら脳震盪を起こしているだけかもしれない。それでもあのまま車道に倒れていたら次の車に轢かれてしまうかもしれない。
 
嫌というほど見てきた光景をせめて避けたくて、歩道にそっと寝かせた。
 
お願い、明日の朝ここを通る時には動けるようになって、いなくなっていて…。
 
翌朝、その犬は同じ場所に寝ていた。
 
死んでしまったのかわからない。
もしかしたらまだ意識のないまま眠っているかもしれない。
目覚めて自分の家に帰ってくれたらいいのに。
 
翌々日、そこにはもう犬の姿はなかった。
 
 
ごめんなさい。
 
 
あんなに死なせたくないと願っていたイノチを、自分がいとも簡単に奪ってしまえるのだから。
 
 
 
 
それから車に乗るたびに、しばらく動物には怯えたし、自分の命も事故を起こせば、呆気ないものなんだろうな…と思うようになった。
 
長旅の前には自室の整理整頓を行う。
 
もしかしたら、2度とこの部屋には戻れないかもしれない覚悟をして、ドアを閉める。
 
 
そんな日々が、死を敏感に感じ取り収集していたのだろうか。
 
それを子ども達に引き継がせるわけにはいかないよなあ…。
 

扉の向こうに佇んでいたイノチ

生家には番犬が絶えることなく飼われていた。


高校の頃、知人から犬を貰った。その犬は元気が良く、落ち着きのないやんちゃ犬であった。
 
ポチと名付けた。
 
ポチを飼い始めてから数ヶ月したある日、誰かが散歩に連れて行こうとしたのだろうか。
多分、綱は付けていたはずなのだが、向こうから走って来る車に反応して道路に飛び出してしまった。
 
衝突音。
 
犬の小さな叫び声。
 
家族は急いでポチに駆け寄った。
 
安全な場所に移し、敷物を敷いて様子を見る。
確か血は流れていなかった。
しかしポチは低い唸り声を上げ苦しそうであった。
意識が混濁しているようで、もうろうと横たわっているかと思えば、急に立ち上がろうとした。
身の置き所のないような苦しさの中、何時間かが過ぎた…ように感じた。
 
「お願い、獣医さんを呼んで!」
ずっと泣きっぱなしだった私はどうしていいのかわからず、さすったり声をかけていたが、やっとその答えに辿り着いた。
 
獣医さんなら助けてくれるかもしれない。
 
母はもう助からないと言った。時間の問題だと言った。
 
私にとってそんな事は頭に入らなかった。ただ今の苦しさを少しでも和らげてあげたかった。
 
「お願い、呼んで!」
 
そうしてやっと、ペットの獣医さんというよりは家畜向きの獣医さんがやって来た。
注射を1本打った。明日まで様子を見るように言われた。
その後ポチの動きは少し穏やかになり、玄関までそっと運んだ。
 
その後のことは思い出せない。
ただ、夜ずっと玄関で犬を見守っていたら、母に「もう遅いから寝なさい」と声をかけられた。
 
どんな気持ちで布団に入ったんだろう。
明日の朝、元気になってくれるかな、苦しくないかな…。
 
翌朝、ポチは静かに息を引き取っていた。
 
私はその姿を見て何も感じなかった。
涙はもうすでに前日に流しきってしまった。
叫び声も使い果たしていた。
 
ただ静かに、静かな気持ちで、2度と動かないその屍を微動だにせず見つめていた。
 
ああ、やっと楽になれたんだね、もう苦しくないね。
だけど、こんな姿を見る事になるとは考えてなかったよ。
少し苦しげでも、まだ目を開けてこっちを見て、ハアハア舌を出しながら息をしてくれていると思っていたのに。
 
うん、あたしは何もしてやれなかったんだ。
あなたを救ってやれなかったんだね。
それなのにあなたはやっと楽になってそこに横たわっているんだね…
 
そんな事を思ったような気がする。
 
「もしかしたら、苦しまないように安楽死の注射をしたのかもしれないね」
と母は言った。
 
なんだって…?
 
あたしが願ったのは、懇願したのはそんな事じゃない。
あたしが切望したのは、この犬のイノチなんだよ。
先の事なんて想像できないけど、とにかく今はイノチを残してほしかった。
 
例えどんな形であっても。

「死」という名前の扉を探しに

「あなたの生活の中には『死』が占める割合が多すぎるような気がする」

先日のカウンセリングで言われました。
その時に話題になったのが、先々週だったか、兄2と意味深な話をした事。
そして私自身、死について考えるものがある事。
 
私自身の考えとは。
 
今の我が家の状態は、これまでの当たり障りない生活から一転、すごくてんこ盛りな印象です。あちこちでケガ人続出みたいな。
この混乱に、果たしてゴールは見えるのかと考えた時、誰かの死をもってでしか解決しないのではないか…例えば私自身の大病や死そのものとか。
 
それくらいの大きな隕石が落ちなければ、誰かが180度変わる事は不可能なのではないか? (極論ですが)。
 
また、死を迎えるのが、私自身ではないかもしれない可能性。
例えば、今1番深淵のほとりを歩いていそうに見える兄2。
しかし私には彼の死ですら、遠い遠い昔からすでに覚悟している事なのです。
 
それはいつから覚悟していたのか?
 
また自分の死などはいつも日常的に思い描き、死に対する心構えや、いつどんな時でも死が訪れる可能性に怯えてはいけないと言い聞かせてきました。
 
一体、いつから言い聞かせてきたのだろう?
 
常に私は、最悪の事を想定し、想像し、覚悟して物事に臨むことがあります。
もちろん最悪の可能性が高いほど、その行程は慎重に、現実的に起こり得るものとして緊張感を高めます。
 
いつからそんな癖がついたのだろう?
 
その日のカウンセリングでは答えが見つからず、帰り道に車を運転しながら、ボンヤリと思い出そうとしてみました。
自分の周りにはこれまで自然な形の死は多くあったけれど、心を揺るがすほどの死には遭遇していない…はずなのですが。
 
何かあるのかもしれない、何かあるはずだ、思い出せていない何かが。
 
家に到着し、いつもの生活に戻り、機械的に家事をこなしながら、はたと甦る記憶。
 
あったよ、見つけた。
ここにあったんだ。