スペクトラムしい日々

自閉症スペクトラムの娘と家族、母の日常をゆらゆらと書き綴ろうと思います

メンヘラ? こじらせ熟女? そんな君の名前を教えて

エロアカを作って三ヶ月。

 

色々と試行錯誤しながら、何とかやっております。


エロ?裏?界隈はDという水面下で動いているから、TL上は穏やかな川の流れに見えてもなかなかどうして。


三ヶ月というと、若いカップルにとっては倦怠期の始まり…
ツイッターも三ヶ月たつと、何となく中だるみというか、飽きるというか、
「私、何やってんの?」
って気になる… エロアカならなおさら…
何か目的や目標がはっきりしてないと、ブラブレのブレまくりなわけです。


なので、気持ちの整理も含めてまとめておこうと思います (あくまでも個人目線なので、参考にはなりません)


こういうアカウントは、リアルや表アカと違う自分の一面を出せる、という利点はあります。
だから、そちらでは試せないことを試したり、できないことを実行することも、ある程度は可能な気がする。
だけど、ここにいる自分はどこか虚像だから、足にしっかり力を入れてないと、波に押されて引っ張られそうにはなる。


そう言いながらも、時折り自分の本質がチラリと顔を出す時があるから、自分が多重人格になった気分にもなる。


だから、エロアカとして何かとアクションを起こしてみたら、自分の忘れていた自分を思い出すことができるかなと思ったり。

 

エロなのか裏なのか、よくわからないけれど、その界隈にいると、RTは使わずいいねを押すことが多い。

リプもあるけど、なんか使いにくい雰囲気なので、Dを使うようになる (人によっては全く使わない人もいるみたい)

たいていの事は挑戦してみたんですよ。
エロリプの対応や、Dのやり取りや、自撮りや (爆)  etc.…と言ってもそれくらいかな~? (オフパコはしてね~!笑)

ツイッター始めて二年半経つんですが、ここでようやっと、ブロックを躊躇わずにできるようになりました! 鍛えられたのかな??

 

アイコンの雰囲気や、プロフに「エロ」だの「人妻」だの「熟女」だの書いておく。

それが理由だと思うんだけど、そうするとですね、その界隈の男性がフォローしてくるんですよ、多分。

 

こちらのツイートを読んでくれてるのかわからないし、いきなりリプで「フォローしてください!」とか、相互になったら即、Dで挨拶や局所自撮り画像とか (私は相互の方のみDできるように設定)

 

そうするとですね、リアルとは違って (ここ大事!) 、自分がいきなりチヤホヤされてる気分になるんですよ、モテ期到来ですよ… 中身はどうあれ。

 

「この人、私にばっかりいいねしてくれてる?」 (みんなにしまくってるっつの)
「Dで口説かれてる〜」 (手当たり次第口説いてるっつの)
「これはある程度、会話おつきあいしないと失礼よね…」 (不快なら返事しなくていいっつの)

 

まあ、この辺の判断がネット慣れしてないからもう、ね (そこじゃないかも)

でも、その辺あたりからまたちょっと判断に悩むというか、私どうすりゃいい?みたいになるんですよ…

 

もちろんDでエロい話をするのは時には楽しいし、甘いことを言われると本当、満更でもないんですよ…

でもなんか、自分の良心を翻弄されるというか…

みんな偉いよな、めげずにツイッターやってて…


例えば、自分がほんの少し我慢すれば、それは極端な話、犠牲になればという事なのだけど、そうする事で相手が楽をする、助かる、幸せになれる… という状況に、非常に弱い。


だけど、それが自分にとって我慢する必要のないもの=相手にとって得にならないものには食指は動かない。
ただの損得ごとなら、逆に気にもならないんだが、その相手が、少しでも、楽になれるとか助かる… あたりの分野がとても弱いんだな…
 
そんな場面に出くわすと、自分の損得や感情や意思のようなものは影が薄くなり、すぐさま「ああ、この人は大変なんだな、辛いんだな、自分が我慢すればいい事なんだな…」と受け止めてしまう。


同情とは違うと思う、可哀想という気持ちにはならないから。
そもそも、可哀想とかいうの嫌いだし。


何だろ… 自分を犠牲にしろよ、と、その人からも周りからも促されるような、誘導されているような気持ち?
それに操られて、その仕掛けにまんまと足を取られるネズミのような。
 
昔の記憶を思い出した。
家族の記憶の中に、そういう場面がいくつか、あるいは、いくつもいくつもあったのかもしれない。
子ども、と言っても物心つくかつかないかの遠い記憶なのだけど、その頃はまだ争って抵抗して泣き叫んでいた記憶がある。


わたしは「だはんちゃん」だったのらしい。
食器棚と冷蔵庫のドアひとつ分の隙間に寝転がって、足で壁を蹴りながら、気がすむまでずっとゴロゴロ回転していた記憶がある。
これってクールダウンだよね…

 

自分でも覚えているかどうかな頃の子どもの自分は、自分の気が済まないとよく「だはん」してひっくり返っていたらしい。
でもだんだんと、気がつくと聞き分けのいい子どもになっていた。

今思うにきっと、ある時、諦めたんだと思う。

これが一番いい選択なんだ、みたいな。

 

その状況というのは、たいてい年上のきょうだいが絡んでくる。
そのきょうだいは、私よりいくつか年上で、田舎町の本家に生まれた大切な跡取りで。
なのに小さい頃は体が弱く病気がちなので、特に母親は神経を尖らせていたと思う。


体が華奢で病気がちで、気持ちが優しくて大切にされた跡取りなのだけど、
その下の妹がそこそこ丈夫で利発で (とりあえずきょうだいの中では) 、口もたつ (ただのおしゃべり) な妹がいたら、
やはり心穏やかではないようだ。

 

妹が褒められると年上のきょうだいは貶される。

男としての、跡取りとしての期待が大きいから、余計に強調される。
例え妹が褒められる側だとしても、比べられるのも、誰かが蔑まれるのも嫌いだ。
ほら… またこっちを見てる、憎らしそうに、妬ましい目で。

 

(今まで気づかなかったけれど、あれは妹を褒めたかったんじゃなくて、跡取りを鼓舞したかったんだな)


妹には、そのきょうだいが、気が優しくて穏やかな性格には思えなかった。

しかし、それでも跡取りは優遇される。

病弱だと、さらに優先される。
妹とはいえ我慢する、年上のきょうだいよりも。

 

なんかエロアカと似てる…
自分の犠牲で誰かが楽になる、助けられること (まあエロだと欲求解消のはけ口みたいなもの?)
根源はここなんだろうな。

 

多分、全く知らなかったわけじゃない。
幼い頃のほうが、もっと鮮明に色んなことを感じていたし、覚えていたと思う。

だけどだんだん忘れるように体が、頭が適応していくんだろうな。

そんな事をまたひとつ、エロアカで気づかされたというか、思い出されたんだけど。


エロアカのいいところは、疑似恋愛を設定できるって事かな。
それが、ヨロシクないところでもあるんだろうけどね、特に若い人達には…


まあ、私の場合、こういう事はリアルではもうできないからね、年齢的にも環境的にも。

そんな世界で、図らずも、自分の中に隠れていた「何か」とバッタリ出くわすことになり、ハッとする。

まあ、何となく、やってみたら何かあるんじゃないかな? という、予感のようなものは感じたんだけど…

恋愛や性的なことって、人の本質を暴くものじゃない? 


だから、やっぱりやってみてよかったし、まだこれからも続けようと思ってます…
まだ拾い忘れてる自分が、残ってる気がする。

 

でもこういう事は、自分のことだから自分判断でやってるけど、人には勧められない。
何となく危険な気もする… 体張ってるしな (笑)
でも確かに、気持ちを持ってかれないようにするのが結構大変 (え、私だけ……???)

 

隠れ落ちていた自分を拾って、その事実を知ったからと言って、明日からあるべき自分になれるわけでもなく、
それなら知る必要もなかったのでは? とも思うのだけど。
やはり知らずに変わらないのと、知っていて変わらないのは、気持ち的な違いはあると思うんですよ。

 

そういうわけで、エロアカ、まだまだ続けます。
やっと少しコツがつかめてきた気がするけど、まだまだ修行が足りないぜよ…

エロアカ日記

8/11

エロアカ出張中なのだが、ちょっと不思議な体験をしたので呟いてみる。

 

題して『つむのアバンチュールに弾けた切ない夜』とでもしておこうか…(笑)

長いのでたらたらイきます(エロアカの決めゼリフ)


エロアカは一カ月前から呟いている。

数日たつと、そこそこ絡みやフォロバもあり、小さいながらも形にはなる。

その頃、私のツイートに共感してくれる男性フォロアさんがいて、何かとファボやリプをくれる。

お互いの恋愛観についてDで話し合ったりと、ノリも合うしそれなりに意気投合。


エロ画像を送られたので、こちらも多少のエロ画像を送ってみたり (ワハハハハ!)

フォロワさんの中では特別な存在になりつつあったのね。

だけど、だんだん自分の身の置きどころが悪くて悩み始めてしまっての…。


ツイッタでそういう体験もないからだけど、向こうのアプローチをどう受け止めていいのか、どこまで受け入れていいのかわからなくなってきちゃうというか…

 

逆に言えば、自分がどうしたいのか以前に、どこからが自分の意思で、どこからがそうじゃないのか、すごく混沌として心が穏やかじゃなくなるんだよね。

 

まあこちらは別に、浮気したいとか、恋したいとか、オフパコとかまでは考えてないし、そういうのとも違う気もして。

でも相手の真意みたいなのもよくつかめなくて…。


そうこうしているうち、相手が訳あってアカ消ししたんだけど、私に別アカ教えてくれてそこで待機してたのね。

落ち着いたら新しいアカの連絡あるだろうしと。

 

ところが今までよく絡んでいたその人と絡めないのが、無性に苦しくてだな…

一日は大人しくしてたんだけど、その別アカにDを送ったの。

 

彼は元気そうだし、そのうちまたアカ作ると言ったんだけど、だんだん彼の素性が見えてきたわけ。

最初はただのエロ絡みしたい孤独な熟男なのかと思ってたんだけど (ひどい) 、消したアカでは交流も多いみたいだし (女性が多いけどな) 、

知識人でエロなりの美学を持っている感じ。

 

だから私もそれなりに尊敬できたし、機会があれば会ってみたい (オフパコはさておき) 気にさせる存在だったんだが、とにかくこの「別アカ待機」が辛くて辛くて…

これは恋? 何だと思う? 感情を揺さぶる何かがあるんだな…。


それで「絡めないのが辛い」と言ったら、この別アカのDを使ってもいいし、ラインあるならそれでもいいと言われ… 悩んだのだけど、ライン交換した (ツイッタでは初体験だぜよ…)


[休憩] 話のくだりに出てくるのは自他境界の曖昧さってやつなのかな…?


ライン交換するまでの私の気持ちは、何だろう、とてつもなく孤独で、不安で、自分がどこにいていいのかわからない感じ。

 

彼は忙しそうで、新しいアカ作るまでは絡む様子はないから、私から絡まないことには繋がれない状況だったんだな。

それがまた辛くて、自分がどこまで絡めばいいのか、絡んでいいのか苛む…何なんだこの感情は…

落ち着け、冷静になろう…自分はどうしたいんだ?


これは、彼に対してだけのものとは思えない、何か、過去からの召喚があるに違いない (大げさ)

とにかく行動してみよう、そしたら何かわかるかも… とライン交換したの。

 

そしたらとりあえず、今までの苦痛が消えたよね… 不思議なくらい。
で、ライン交換したからと言って、最初の挨拶はしたものの、向こうからの絡みはないし私も声かけてない。

 

いったんホッとしたものの、やはり寂しい。

新しいアカはすぐにはできないし、教えてもらえるのかもわからなくなってきた。

で、ラインアカの情報をもとに色々調べてみた。


一応ラインは、お互いリアル情報だからね…。

名前やIDから検索かけたり他のアプリで探してみたりさ…。

で、彼のリアルな世界を見つけたわけよ。

ちゃんとお仕事している素敵な方でしたの (盲目化?)


彼のリアル世界がわかるにつれ、私は少しずつ安心してきた。

まあ、わけわからん人ではなかったってこともあるけど、ツイッタで話したこととか、別にうまいことばかり言ってたわけでもないんだなと。

でも間違いなく彼にとってはお遊び的なんだと思う、ツイッタは。


適度に女性と絡んで楽しく過ごして、気が合えば外で会ったり、それ以上のこともあるのかないのかわからないけど、少なくともリアルの彼はリア充よりでしょって感じ。

 

だから私との会話も、遊び的要素はあったと思うのね。

それは全然構わないの。

お互い近寄りすぎず大人の会話を楽しむのって、醍醐味じゃない? 安心だし。

 

ただその中にもホンネ的な部分… 自分の考え方とか暮らしぶりみたいなのを聞いて、私がちょっと引っ張られたというか…。

 

そのままそっちに入り込まなければいけないんじゃないか…っていう…これ、境界線の話になる?


あの個人情報の少ないツイッタ界で、いわゆる恋の (?) 駆け引きのようなものに振り回された、みたいな話なんだな、一言で言うと。


でも今思い返してみるんだけど、あの時Dで彼が話してくれたことや、私の考え方に共感してくれたことは、嘘じゃないと思うのね、多少の下心はあったとしても (願望多めです)

そこでナンパするほどモテない人じゃないから… (多分)


で、今はまだ新しいアカの連絡待ちなんだけど、まだ連絡はこない。

このまま教えてもらえないかもしれないし。

でもとりあえずラインはもらったので、連絡を取ろうと思えばできると思うんだけど (ブロックされなければ) 、

以前と違って、私は彼のリアルを知ってしまっているわけで。

 

これからツイッタでまた相互になれたとしても、ラインだけのつながりになったとしても、彼にどう接して行けばいいのか… と少し悩んだんだが。

結局は初心の、気が合ってノリのいいエロい彼として接したいなと。


まあ、アバンチュールな話はこの辺で…ここからが実は本題なのだよ…


彼と連絡が取れない、いや、取ろうと思えば取れるんだけど、どうしたらいいかわからなくなってしまった時、感情が揺さぶられてたんだよね。

でもまだ冷静な自分がいるから

「これは彼に対しての恋愛感情なのか? いやちょっと違うよな?」

というのがあって。


色々行動起こして落ち着いてから、もう一度振り返ってみたんだよ、その時のこと。

あれは私と母親との関係に起因しているんだなと。


私はワーッと調子よくやっている分にはいいんだけど、いざ関係がそれ以上深くなりそうになるとすごく不安になるんだよね。

このまま深入りしちゃっていいのかわからなくなる。

またその深入りの歯止めが見極められなくなりそうな。

だからセーブがかかる。


逆に、強引に引っ張られれば、自分の感情とか意思の境界が見えなくなって居心地が悪くなる。

それでも最後には元に戻ろうともがいてたとは思うんだけど。


自分では、根は甘えん坊で人懐こくしちゃうタイプだと思うんだが、行き過ぎないようにセーブしたりコントロールしてると思うんだよね…。


なぜガードしちゃうかというと、きっと幼少期の母親との関係なんだろうなとは思ってたんだけど、それが今回のことで確信した、みたいな…。

 

私が母親に甘えようとする

→ うまく受け止められてもらえない状況が重なる

→ 甘えることに遠慮する

→ 時々甘えていいチャンスがある

→ 嬉しいと同時に不安になる…みたいな感じ。


ここで一歩踏み込んでいいのか迷うし、一歩踏み込んだらなだれ込むように甘えてしまいそうになる。

それがまた怖い。

だから、最初から同じ位置をキープしていたい。

自分の感情や意思が、どこまでなのかも曖昧になってくる。

その辺を揺さぶられるのが辛いんだな。


で、この辺がもろに恋愛関係にも響いてくるっていう話。

まあ、人間関係全般まではあまり響いてないと思うけど、親密さに響くよね…。


今回の件は、そういう発見ができたんだが、じゃあどうすればいいのかと考えても、ねえ。

 

とりあえずその状況にはまり込んだ時、分身の術を使って、もう一人の自分に冷静になって判断してもらう感じかな…。

 

あとな、エロアカは日中はあまりTLが動かないんじゃよ…


プロフィールに「変態」の文字を入れると、その文字に群がってかなりの変態さんがフォローしてくるので、書かないほうがいいです。

 

8/17

内側のドロドロを全て掻き出したら、最後の陰核の部分はきっと美しいピンク色のはずだ…

人間の粘膜は綺麗なんだぜ…

ほら来いよ、抱いてやるから…

そしたら「佳きかな…」って声が漏れるぜ……

 

9/1

エロの旅はまだ続きそうなんじゃが、いずれ終わりが見えてくるかもしれない。

その時に何が残っているのか、何が消えて、何が生まれているのかは、ゴールに立たなければわからない。

 

9/9

あのな、俺な、今な、自分が引っ張られない練習してんねん

 

9/16

自分を解放しようとしても、意外とそう簡単に解放できるわけでもなく。

自由ってなんだろうってなる。

宇多田ちゃんは「自由になる自由がある」って歌ってる。

 

案外、肉体的にがんじがらめに縛られるほうが、精神的には解放されるのではないか

 

9/21

結局いつも同じ場所で躓いている自分を発見したよ

 

同じ道を歩いている時、必ずあの石ころが同じ場所に置いてあって、必ずその石ころに躓かされる、みたいな感じ

 

その石ころでまた躓かないように、毎回なるべく遠くに投げるか、土を盛って平らにするとかするのに、次に歩く時、前と同じようにその石ころは存在して私を躓かせる

 

それでも転びかたが前よりはマシになったり、何とかこらえて転ばないようにはなった… かな… ような… 気がする… んだけど…

 

10/28

自分が望まないことを他人から望まれた時に、すり替えられる根本が見えた気がする

 

思いの外、夕飯と曜日の呟きが多いことに気づく

 

 

 

 

日々のタイムラインと下ネタと告白り(こっくり)さん

そろそろブログをまとめようと思いつつ、なかなか時間が取れないため、少し(かなり?)遡ってツイートを載せてみます。

真面目なツイからアホなツイまで、コーヒーでも飲みながら気分転換に・・・(なるのか!?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追憶

思えば遠くへ来たもんだ

「診断名を伝えましょう」

心理士さんにそう言われてさすがに「え……え??」って一瞬なりました。
 
それは、それこそは娘が診断を受けてからずーーーーーっと私の頭の中にあって、意識してきたことなのです。
 
今現在、娘にはまだ診断名を伝えてはいないし、それについての詳しい説明もしていません。
 
特性についてはその都度、娘が理解しやすいようにシンプルにわかりやすく伝えるようにしてきました。
しかし、それは娘にとっては性格の延長であったり、努力すればできるようになることと受け取っているかもしれない。
 
いつか話す時がくる。
それがいつなのか… 小学校の高学年あたりだろうか…と、本やまわりのお母さん達から情報を取り、以前から漠然と考えていました。
 
しかしなかなかそれはやってこなかった。
 
就学前の娘には、そんな話が成り立つような理解力や会話力はありませんでした。
小学校に入学してからも、私には娘にどれだけの理解力があるのかよくわからなかったし、
関係機関のどなたも「告知」というワードを口にはしませんでしたし、
そもそもオットの理解が得られていなかったのです。
告知どころか、障害についての理解が。
 

youtumugi.hatenablog.com

 

1番はじめに「これは…そろそろ伝えるべきなのでは?」と感じたのは娘が小4の時でした。

少しずつ、友達とうまくいかない自分に悩むようになっていたのです。
 
娘はそうは言いません。
 
「友達と遊びたいのに遊ぶ友達がいない」
「友達が私に話しかけてくれない」
「でも自分から(遊ぼうと誘ったり話しかけること) はしない」
 
できないのではなく、しないそうです。
「そういうタイプだから」と。
 
そのうちに、
「まわりから変な目で見られてる、私のことをバカにしている」
…などと気にするようになり、
それが支援学級にいるせいなのではないか、
どうして支援学級にいるのか、
病院に、検査に行かなければならないのか…
 
娘のなかでクエスチョンマークが増えていったようです。
 
その度に話を聞いて、ああかもね、こうかもね、それはこうだと思うよ、
あなたはこういうところがあって支援学級に病院に検査に行っているんだよ・・・
そう説明してきたつもりですが、どうしても言葉足らずになってしまうのです。
 
「診断名」や「障害」という言葉を避けて話そうとするからです。
 
「娘にきちんと話したほうがいいのではないか」
主治医や支援者にも相談してみたのですが、
「まだ必要ないのではないか」
「診断名をはっきり言わなくてもいいのではないか」
…という返事なのです。
 
多少モヤモヤしながらも、そんなものなのかなと様子を見てしまう。
その時の私には、自分が直接、娘に話すことなど自信がありませんでした。
本当は、できれば主治医から説明してもらいたかったのです。
 
あれこれ習い事をしてみたり、今とは違うタイプの放課後等デイサービスを利用してみたり、普通学級に行くための練習をしてみたりするうち、
普通学級の友達にも、支援学級やデイの友達にも違和感を感じてしまう。
友達にも勉強にも、ついていけなくなってしまう。
 
少しずつ自分に自信が持てなくなっていったのだと思います。
そして不登校
 
色々な支援機関に相談をし、思いきって病院も変えました。
そして新しい主治医に、いずれ診断説明をしてほしいとお願いしました。
 
その頃はまだ登校できず娘の気持ちも沈んでいて、すぐには動けないと思いましたが、
半年ほど経過し、少しだけ学校に足が向くようになった頃、
再度娘への診断説明が話題になった時に主治医から、
 
「まだ必要ない。説明したとして、言葉では理解しても本当の意味で理解するのはずっと先になるだろう。急ぐ必要はない」と言われました。
 確かにまだ登校も軌道に乗れてない状態だったので、そう言われるのも仕方ないのかなと思いました。
 
そのままその話題はいったん胸にしまい込み、また頃合いをみて話すことになるのかなと。
 
しかしデイの心理士さんは「もう病院はほっといてこちらでやりましょう」と。
 
実は娘の勉強方法に、私も担任の先生も悩んでいて、心理士さんに相談したのです。
 
小学校の後半から、宿題は悩みの種ではあったのですが、それを誰にどう話せばよいか考えもしなかったし、みんなと同じ宿題をすることに疑問を感じませんでした。
ましてや普通学級に移る練習をしている期間は、みんなと同じことを支援なく行うことが前提でしたから。
(今にして思えば無茶ぶりが・・・)
 
娘がどんな方法で勉強すればやりやすいのか、身につけやすいのか。
小学校ではそこそこついては行けたかもしれませんが、中学になればそうも言ってられません。
教育相談も申し込み中です。
 
心理士さんはどのような方法で勉強すればいいのか、検査してみないかと。
WISCだけでなく、もっとくわしい検査をして娘の特性をくわしく調べようと。
そして娘に合った勉強方法を考えようと。
 
ウルトラマーーーン!!!!!!!!
(わかる人にはわかる雄叫び)
 
それも含めて、やはり診断の説明は必要不可欠なのだと。
 
私も、これまでの告知に対する自分の考え方や思いを心理士さんに伝えました。
そして中学のこの3年間が、娘にとってとても重要な期間であり、
この3年間のどこかで告知をすることになるだろうと。
むしろそれは今でもいいんだと、話をしながら確信していきました。
 

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心理士さんとデイの活動について話し合ったことを、その日の夜にパソコンでまとめました。

そして3枚コピーしました。

1枚は担任の先生に、1枚はオットに、1枚は心理士さんに。

(情報の共有ってやつ・・・)

オットはまだ心配な様子でしたが、反対はしませんでした。

 
その一部を抜粋。

『これから、本人に診断名の説明をする方向で考えていきます。

  ①検査をすることや、支援学級での勉強をしていく理由を伝える必要がある。

  ②本人が診断名を知ることで、これからの進路や就労について一緒に考えていける。

  ③「自分は何者か」を知る権利があり、理解する力がある。』

 

 

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「自分は何者なのか」
まさにその一言が、娘に伝えたい全てなのです。
その問いを心に抱えたまま、背負い込んだまま、暗い深い森の中で、娘を迷わせるわけにはいかないのです。
 

 

 

 

 

支援の向こう側

娘の高校進学について、基本的には高等支援学校に進んでほしいと考えています。

オットは普通科にせよ職業科にせよ、普通高校に行ってほしいようです。
 
それは(定型児の) みんなと一緒に(定型児と同じ環境で) 学校生活を(定型児と) 楽しく過ごしてほしいと考えているからです。
ちょっと意地悪な書き方になっているかもしれません。
 
はっきりと話し合ったわけではないのですが、オットは発達障害というものについての知識がまだ曖昧だと思います。
そして「障害」というものが、まわりから理不尽な扱いを受け、社会の弱者であると考えているように思います。
 
それ故、娘をその括りに入れてしまうのにためらいがあります。
だからきっと、普通高校に入って普通に学校生活を楽しんでほしいのだと感じました。
 
(普通ってなんだ…)
 
そして娘は、今はまだ普通高校と高等支援学校の違いがよくわからない。
そもそもどんな高校があるのかさえ、よくわからない状態ではあるけれども、
今一緒に過ごしているみんなと、小学校から中学校に上がってきたことと同じように、高校という場所に流れていくのかな・・・と漠然と考えているかもしれません。
 
しかし、仮に娘が普通高校を望んだとして、どんなメリットがあるというのか。
 
ただ普通高校に通った、
(定型の) みんなと同じ高校に通った、
そのことが娘の将来にどれだけの利益になるのか。
 
利益…苦手な言葉ですが、せめていい思い出として心の支えになってくれたなら、無駄とは言えないかもしれませんが・・・
 
娘の思い出として心の支えになるのだろうか?
 
それは第三者が決めつけられるものでは全くない。
だけど勉強が嫌いで、友達づきあいも苦手で、かといって1人が好きというわけでもなく、かと言って自分から入れない。
そんな娘が支援を受けられず、まるで置物のように教室の席に座っているだけの3年間なら、
 
例え「エゴでしょ?」と言われても私なら要らない。
(むしろ普通高校に通わせるほうがエゴなのでは?)
 
しかしその判断を自分ですることは、娘にはまだできないのです。
 
正直、障害についての印象を聞かれれば私だって、差別や偏見やいじめからは避けて通れないように感じますし、そういう事実があること、そのような場面に出くわすことも多くはないですが、あります。
 
そして障害者を弱き者、守らなければならない者、継続した支援が必要な者と捉えています。
娘がその立場であるということに、悲観的にしか考えられない時期も当然ありました。
 
今だってないわけじゃありません。
 
だけど「このほうが幸せだろう」という、親の思い込みとも言えるイメージで、未来を想像できないまま安易に決めたくないのです。
 
どう前に進むべきか大人が知識を得て、ある程度導いていく必要があるのではないか?
こっちだよ、この道のほうがあなたにとって歩きやすいよ、急な坂道がないかわりに緩やかなカーブがあるよ、あなたの好きな色の石があるよ、みたいな。
 
中学校に入って、普通学級の授業についていくのが難しくなり、
誰かに相談するでも、声をかけるでもない娘は、静かに座ってノートを取ってはいるかもしれません。
それでも先生の目にはあきらかなわけで。
 
娘のプライドを傷つけないように、少しずつ支援学級で個別に勉強する時間をそれとなく増やしてもらう。
そこで「できた」という自信がちょっとずつ、積み重なっていくといいなと思いつつ。
 
そのように授業を受けることで、学力は低空飛行ながらも維持はできるかもしれない。
 
今は少子化で、この辺の地域では定員に空きのある高校も少なくありません。
名前と受験番号を書いて、0点を取らなければとりあえず入れる学校もあると噂で聞きます。
そんな高校に行くよりは、学力重視にせず高等支援学校への進学を目指して授業に臨んでほしいです。
 
その先の向こうには何があるのか?
 
そう。
高等支援学校に進み、娘が好きなこと、取り組んでいけそうなこと、
そんなものが働くことへの関心や意欲に繋がるといい・・・と思いつつ。
 
そうスムーズにいくだろうか?
 
やはり壁が見えるのです。
「なぜ自分がその高校に行かなければならないのか?」
「多くの友達は通学しているのに、なぜ自分は寄宿生活をする必要があるのか?」(通学可能な高等支援学校が地域にないため)
 
そう聞かれたら何と答えればいいのだろう。
 
きっとその過程で、娘の障害について・・・特性について触れなければならない時が来ると。
 
そこに行き着いてしまうのです。
続く。